2020年3月26日木曜日

パンデミック エピデミック(5)8世紀 日本 天平の疫病

645年 「乙巳(いっし)の変」(「大化の改新*」)

「む(6)・し(4)・ご(5)ろし」と覚えましたっけ。
今はこんな物騒な言い方より「む・じ・こ(無事故)の世作り」とか「む・し・ご・め(蒸し米)美味しい」と覚えるらしい。
でも、ムシゴロシの方が、出来事と一致している気がします。

622年に聖徳太子が、627年には蘇我馬子、そして628年には推古天皇が次々と亡くなり、時代はまた新しい局面へーーー。

馬子の子、蘇我蝦夷は益々勢力を増し、舒明天皇(34代)は、蘇我蝦夷の傀儡状態でした。
さらに蘇我蝦夷の息子 入鹿に至っては、権勢を振るうどころか横暴さが目に余る状態に。
そして、中臣鎌足(この人は物部氏派閥だった)と中大兄皇子(後の天智天皇)が、クーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害しました。(お父さんの蘇我蝦夷もこの時自害。)
*この後、律令国家として整うまでの数年間に行われた改革を「大化の改新」という。

中臣は、息子 不比等の代で、天智天皇から藤原の姓を賜り、藤原不比等となります。
藤原一族は、天皇家(後の聖武天皇)に娘・光明子を嫁がせたり4人の息子達(藤原四兄弟)を政府高官にしたりして、藤原政権を築いていきました。 
「この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ藤原道長の繁栄も、ここが起点だったのです。

元々は保守ナショナリストの流れを汲む藤原氏ですから、グローバリゼーションは、少しスローダウンしたのかな・・と思ったら・・・
なんと大陸との戦争をやらかしています(!)。


663年 白村江の戦い (百済 &日本 v.s. 新羅・唐の連合軍)

この頃の大陸との関係を見ると、日本は百済と良好な関係をもっていたようです(というより天智天皇は、過度の肩入れをしていた?)が、新羅による朝鮮半島統一の動きがあり、新羅は唐の力を借りて百済を挟み撃ちにして滅ぼそうとします。百済は、日本に援軍要請。
それに応じた日本でしたが、白村江で大敗してしまいます。
結局百済は滅ぼされ、王侯貴族をはじめ沢山の百済人が日本に逃れてきました。

この頃の唐でといえば、丁度、高宗&武則天の垂簾政治の頃です。
この戦いの後、日本はこの後30年、遣唐使は8世紀の玄宗帝(楊貴妃を見初めたあの皇帝)の時代になるまでお休みになります。 
(※唐からは、朝貢を要請する使者が何度か来ていたみたいですが。)

ちなみに、第1回遣唐使は、630年「む・さ・れ(蒸され)て海渡る、遣唐使」という覚え方があるようです。
年号早覚えは内容と意味が一致せず、無理矢理こじつけたものも多々あるけれど、「蒸されて」船内は過密で湿度が高く不衛生だったかも?なんて思えて、これには何となく受け入れやすい気がします。
8回目で中止になり、9〜19回まで続き、20回目の予定だった894年は中止=「は・く・し(白紙)に戻す、遣唐使」です。
学問の神様として祀られている菅原道真は、最後の遣唐使に行くはずだったメンバーのひとりですが、玄宗帝(在位712~762年)が楊貴妃に溺れている間に起こった謀反の反乱「安禄山の乱」以降、芳しくない状況がつづき、唐末期にはすっかり治安も乱れて物騒になっており、そんな唐に優秀な人材を送ることはなかろうということで取り止めになったのでした。

907年、唐は滅びますが、唐が衰退する中、日本では、疫病の大波が2波も来ていました。
それらは、藤原のご子息が全滅になる 「天平の疫病」、自然災害が大きく関わる「延歴・貞観の疫病」です。


8世紀 天平の疫病
    〜藤原四兄弟の死、大仏建設へ〜

天智天皇の後、大友皇子と大海人皇子の跡目争いを「壬申の乱」(672年)といいます。
これは実は、親唐派 v.s.親新羅派の争い。

大国唐とその端っこの半島でかろうじて独立を保っている朝鮮半島の三国、そして島国日本。
唐は、大国とはいえ異民族に囲まれ常に「大国」として君臨している(時にはそのように見せる)ことで辛うじてバランスを取っている。

新羅は、百済に続き高句麗を滅ぼします。これまで唐との間に位置してある意味クッションとなっていた高句麗。その高句麗を追いやると、新羅が唐と「隣り」という形になり関係性が変わります。(お隣とは上手くいかないのが常なのだ。)新羅は日本を身方につけておくことが必要となって、日本に朝貢するようになるのでした。
しかしながら、高句麗に付属していた一族が高句麗の残党と共に渤海国を建て高句麗の地に復活します。新羅は、また唐との関係が大切になり、日本への朝貢をやめて唐へ朝貢することに。あっちに付き、こっちに付きするこの辺りの立ち振る舞いは、気まぐれな印象ですが、大国の端の半島で独立国家を維持する難しさが現れているともいえます。

さて日本。
中国や朝鮮半島と、うまくバランスを取らなければならない難しい状況がつづく中、世は藤原の繁栄を迎えていました。

中臣鎌足の孫達(藤原不比等の子供達)藤原四兄弟は、皆高官となり、娘の光明子は聖武天皇の皇后となり、その間に男子も生まれて藤原家安泰〜♪ と思ったことでしょう。
が!
次の天皇にしようと思っていたこの男子が、直ぐに死んでしまいます。
藤この死を、常々藤原独裁状態に異議を唱える疎ましい存在であった長屋王(天智天皇の孫で天智天皇の娘の子で聖武天皇の従兄弟/皇位継承権がある)による呪詛(呪い殺した)だということにして、長屋王を排除(死に追いやる)したのです(729年)。

「因果応報」とは、仏教の教え。
人を貶めて掴んだ地位もお家の繁栄も「諸行無常」。

繁栄の影に疫病が迫り来ていました。

735年 またしても疫病大流行(太宰府)
737年、平城京の都でも疫病大流行

この時は、なんと人口の1/4が亡くなったといいます。
藤原四兄弟、そして光明子(聖武天皇皇后)まで皆、疫病で死んでしまうのです。

これは冤罪で死に追いやられてしまった長屋王の祟りではないか!?
ビビった聖武天皇は、既に亡くなっている長屋王に太政大臣の地位を与えてみたり、全国に国分寺、国分尼寺を建て、さらに東大寺、そして大仏を建てるのです。

752年、「優しいお・な(7)・ご(5)・に(2) 似た大仏様」と覚えたなあ〜。)))
世界遺産も、疫病のせいで造られちゃった!??

東大寺 大仏の開眼式典には、新羅から700人もの人が来て参列したそうです。
ちなみに756年にも疫病(麻疹?)の流行がありました。

<つづく>

参考文献
「人類と感染症の歴史」加藤茂孝
「疫病と世界史」ウィリアム・H・マクニール
「病が語る日本史」酒井シヅ
 その他、世界史、日本史の本(随時[ ]にて記す)


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