2006年10月23日月曜日

食育の講演会より:藤野真紀子/神田博史/安原義/梅垣敬三(1)


先週から数回、4先生方による「食育」をテーマにした講演会に足を運んだ。

1)「俺にも言わせろ ~社会と文化が正常なら食育はいらない~」by 安原 義先生(東京農業大学短期大学部 栄養学科教授)

2)「健康食品の安全性と有効性」 by 梅垣敬三先生(国立健康栄養研究所情報センター・健康食品情報プロジェクトリーダー)

3)「ダイエット食品を考える」 by 神田博史先生(広島大学薬学部助教授)

4)「食育を通じた人づくり」 by 藤野真紀子先生(料理研究家・衆議院議員)

ー日時順ー

タイトルから、講演内容はなんとなく察しが付くでしょうか。

1)の安原先生のお話は、社会の矛盾を食と栄養学の視点からもの申したもの。

人間は、情報をDNAだけではなく文化で伝えているのである。その文化は、家族揃った食事の中で培われ、文化の継承の中で、健康の維持能力も育っていく。知育、徳育、体育、食育がバランスよくできてこそという主旨のお話。

食物そのものに着眼するのではなく、あくまでバランスと自然を考えるべしと、マスメディアによる美意識や健康観の歪みを指摘し、「ブスは痩せても痩せたブス」「ジャンクフードはない。食べ方がジャンク」「栄養士らが健康によいと薦めた食品はアレルゲンだった(アレルゲンにならない食品はない)」「健康で長生きすれば、癌かアルツハイマーで死ぬ」・・・等々、綾小路きみまろさながらの毒舌で、子供や孫たちの食生活に釈然としない思いを抱えるおかあさんおばあちゃんを「うん、うん」頷かせる。

栄養学科の先生らしからぬ発言だが、意外に昨今こういう考えの栄養士さんは多いように思う。

癌で闘病生活を送った経験のあるベテラン栄養士さんと、以前一緒に食事をした時にも、自らの体を通して「栄養学の分子の世界で健康を語るのは人間のおごりだ」とおっしゃっていた。科学的知識があるからこそ、その矛盾にも気が付くことができるものなのかもしれない。

安原先生も「試験管の反応が体内で同じようになるとは限らない」と、異口同音に説かれる。

科学は、ある約束事の範囲で成り立っていることを認識しなければならない。

科学とは、複雑な事象を単純化して説明する遊び。複雑な物質は、それを構成する要素に分解し、それらの個別の要素だけを理解すれば素の複雑な物質全体の性質やふるまいも全て出来るはずだと想定する考え方なのだーーーと。

有るものを分け合って食べる時代から、選んで食べる時代への移行で、大切なものが抜け落ちてしまった!?。

自然の力、すなわち栄養素では語れない旬のエネルギーとバランス力。

ちょっと体調を崩した経験のある人なら、きっと思い当たることがあるはず。そして、自分の体の声を聞くことを覚えたら、聞こえてくるはずである。

私自身も、ストレスで体重が減ったことがあるのだが、その時は、体が冷え易い状態で、ちょっとした食べ物の違いで、体がぽかぽかしたり、シンシン冷えてトイレが近くなったりという違いを敏感に感じた。それを機に、陰陽説や医食同源などというコンセプトにも関心を持つようになったが、知れば知るほど、改めて自然の摂理に感服するばかりである。

進歩の中で、実は退化させてしまった感覚があるのではないかーーーー。

お話を聞くごとに、そんなことを考えさせられる。

<つづく/全3回>

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