2006年9月25日月曜日

イラン人 in Person

先日の昼下がり、国際交流のボランティアをしている奥様Tさんに誘われて、イラン人記者Mさんとお会いしました。

日本の家庭を垣間見、民間人とふれあいを持つ時間をと、お世話役がコーディネートされた数時間。

Mさんは、ハンサムな紳士、宗教的にも規律に忠実な方で、お会いしていた数時間の中でも1度お祈りの時間を取られた。

まず洗面所で手と足を清め、和室に案内されるとメッカに向かってお祈りをーーー。

何処でもお祈りを始めるイスラム教徒の方に、違和感を感じる人もいるのかもしれないですが、見方を変えれば、素晴らしい部分。不勉強を承知で感覚的に言わせてもらえば、食べ物を命を頂くこととしてとらえ、お祈りして清めてから食べるというのはそれなりの理屈があるように思えるし、お祈りの時間の為に太陽の位置や方角を気にしするのも、忙しくビルの谷間を歩きまわる都会人が忘れてしまっていること。合理的発想に支配されている現代社会にどっぷりと浸かっていると、なんだか独特のゆったりムードすら感じてしまった。何処にいても、一つの方角を意識しているなんて、方向音痴の人には苦労なことかもしれないけれど(笑)。自意識が強く相手に合わせがちな日本人からすれば、強いアイデンティティを感じる。

「相手に合わせる柔軟性があるところが日本人の素晴らしいところ」と語るのは、通訳のAさん。
日本在住15年で、今回Mさんの訪日では付きっきりでお世話しておられる。
気さくな親日派の彼は、「いつどこで日本語を勉強したの?」「宗教的にはどうなの?」・・・もうこれまで何度も尋ねられたであろう質問にも快くユーモラスに答えてくださる。

「イスラム教の人たちは、悲しいかな食べ物の制約がコミュニケーションの壁になっている。一緒に食事をしてこそ和みの空気が生まれるものと」感じているAさんは、なんでも頂き、お酒もたしなむことにしているそうだ。最も、それなしには成り立たない職務ゆえ割り切らざるを得ない立場とそれが許されるバックグラウンドもあるのだろうから、比較はできないけれど。

Mさんがお祈りをしている間、だれがしゃべっても常に通訳に追われ、出されたモノにも殆どハシがつけられないAさんに「やっとお茶が飲める時間ができましたねえ(笑)」と、私達は、お茶とお菓子を勧めました。

雑談の中で教えてもらったイランと日本の意外なつながり。

「コタツ」は、そのままイラン語(ペルシャ語)にあるのだそうだ。

長い手足を「コタツ」につっこみ暖を取るイラン人の姿を想像すると、なんだか笑ってしまうが、コタツ文化がシルクロードを通って伝わったのだろうか。トップのテーブルが、モザイクだったりして。)))

また、「いい加減な」を意味する「チャランポラン」はペルシャ語で、そのまま同じに使われているのだとか(!)。

パックン並の日本語でジョークを連発するAさんだから、最初はすっかりジョークだと思って聞いていたが、ホントなのでした。

これまで私の中では、イランという国が中東の一国としてのイメージでしかなかったけれど、昨日はテレビでイランの報道を見ながら、お二人の顔が浮かんだ。国名を聞いたとき、誰かの顔が浮かぶこと。これが国際交流の意義なのかなぁと、一寸思った次第。一人、ひとりの顔が思い浮かべば、戦争などできるはずもないでしょう。

外国のお料理、ライフスタイル。

「 "外へ目を向ける" というのは素晴らしい日本の文化。宗教も過激でもなく無頓着でもないレベルがいいですね」と、MさんAさん。

アメリカに正面からモノ申すイランのアフマディネジャド首相やベネズエラのチャベス首相を、ちょっと羨ましく思う今日この頃。

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