2006年12月27日水曜日

「清浄歓喜団」




京都東山区祇園町・亀屋清永の「清浄歓喜団」。

奈良時代、仏教と共に遣唐使により伝えられたお菓子だそうな。
元々は、天台宗や真言宗等のお供えものとして使われていたといいます。

白檀、竜脳、桂皮など、仏教でいう「清め」の意味がある7種の香をほのかに加えた皮で、小豆餡(元々は栗や柿、杏などの木の実を甘草やあまづらなどの薬草で味付けした餡だったそう)を包み、上質のごま油でじっくりと揚げてある。

八つの結びは八葉の蓮華をあらわし、形は金袋になぞらえてあるのだとか。
2007年のお正月のお菓子はコレ。心機一転できそう・・・!
(誘惑に負けて、お正月までに食べてしまいそうですけど・・・)

なんともいえない姿形に、いにしえの雅を感じる。
漆皿もいいけど、モロッコのお皿に乗せてみました。

どれどれ、ちょっとひとつ・・・。

2006年12月26日火曜日

パン in 広島


広島人は、おいしいパンを食べている。

・・・と、私は勝手に思っています。

デパ地下には、ジョアン(三越)、ポンパドゥール(天満屋)、アンデルセン、メロンパン、アロフト(福屋)、ドンク(そごう)など、中央発または地元の人気パンやさんが入っており、パンやをはしごすることだって可能。
中心地のメイン道路沿い200-300m程の区間に4店もデパートが並んでいるということが、このことを可能にしている訳だけれど、コレ、よく考えたら、珍しいのではないかと思うのであります。
東京の人気パン屋の支店を含め、ザッと思いつくだけでも市内に片手に余るほどの本格ベーカリー&ブーランジェリーがあり、人口比からいくとかなり高いように思う。

Mon : 昔懐かし日本人好みのふんわりパン。「調理パン」「菓子パン」という言葉がピッタリのパン。

メロンパン:呉市に本店があるパンやさん。生地にしっかり砂糖を使い、種類もメロンパン、あんぱん、アーモンド型のクリームパン他数種に限定して生産している。昭和日本を思わせる懐かしいパン。

アロフト:日本とフランスのパンが上手く融合した感じのパンやさん。職人さんの中には、ビゴさんに憧れて来日したフランス人パン職人さんも・・。お気に入りは、ワインで練ったレーズンと胡桃入りのパンと、フランスパン生地でバターを折り込んだクロワッサン風のパン(油っぽくないのに、層があるのが嬉しい)。

ブーランジェリー101:ブリオッシュ生地にたっぷりのカスタードクリームが入ったパンが人気だが、ここのクロワッサンもバターたっぷりで美味しい(!)。ハードタイプのパンに、天然酵母のものもあるし、ライ麦パンも酸味が少なくて、日本人には取っつきやすい軽い仕上がり。気泡の大きなカンパーニュもオススメ。食パンは、8枚切りをカリッとトーストがいい。イギリスのホテルの朝食みたいですよ。

ドリアン:石釜で焼く天然酵母のカンパーニュが看板商品で、全国で取り寄せオーダー殺到のパン屋さん。コチラはズッシリ重たく、酸味のある生地。国産小麦、全粒粉を多用。ライ麦90%のパン・ニッケルには、キャラウェイが入っていて、本格ドイツ風。

ブーランジェリー・マガラ:フランスで修行した職人気質な若手パン職人真柄さんのお店。自家製天然酵母をじっくり仕込み10時間近くかけてゆっり生地を発酵させる製法のため、週に3日しか開けていないお店。なかなか買えないけどバケットが最高(!)。

ヴィレッジベーグル:本格もっちりベーグル専門のパンやさん。ベーグル食べたさに家でパンを作っていたが、お陰で今はそれも不要(笑)。

そして、アンデルセン。

デンマークの食卓がコンセプトのパン屋さん。東京・青山のアンデルセンは、広島が本家本元のブランドなのだ。

バターたっぷりの折り込み生地でできたデニッシュ(写真・下)が看板商品。

このデニッシュの開発には、創業者のエピソードが満載。創業者高木氏は、デンマークでデニッシュを食べてえらく感激し、お店の商品にしようと早速開発に当たらせたらしいのですが、デニッシュの折り込み生地がなかなか上手くできなかったそう。
「デニッシュ」。いわゆるペストリーなのだが、生地がパイ生地のように層になっているのがデンマーク風なのだとか。

生地に層を作るためには、バターが溶けて生地に馴染んでしまわないように仕上げなくてはいけないのだが、そこのポイントがなかなか解明できなかったために、失敗が続き、その失敗から生まれたのが、写真(上)の「デンマークロール」。おやつパンのような硬めの生地にアイシング。30年来の定番商品だ。広島っ子には「おいしい」というより「懐かしい」味。
お店の歴史がこもっているから、今も廃盤になることなく店頭に並ぶ。

余談ですが、デンマークデニッシュとスウェーデンのデニッシュは、生地が違うのだそうです。デンマークはアンデルセン同様層になっているが、スウェーデンのそれは、むしろ「デンマークロール」に近いバターを練り込んだ生地でできている。デンマーク人、スウェーデン人は、この違いにうるさい。

似て(?)非なる写真の2者、スウェーデン人は、どっちを選ぶでしょう??ちなみに、千葉のIKEAのカフェにあるデニッシュは日本人向けに層になった生地だけれど、ストックホルムのIKEAのは、バターの豊富なパン生地(層無し)。

パン屋も、パンの種類によって特化さつつある昨今。クロワッサンなら何処何処、バケットは何処何処ってな風に、その日食べたいパンによってパン屋を変えるなんてことが気軽にできてしまうのが広島。これってなんだか贅沢。

アンデルセン贔屓するわけではないのですが、アンデルセンの存在は、広島人のパン意識を高めているに違いない・・・・と、思っているのでアリマス。

2006年12月17日日曜日

保命酒(VS 養命酒)


広島県福山市鞆(トモ)の保命酒。

全国レベルで見ると養命酒の方が知名度は高いけれど、ワタシはコチラが贔屓なのだ。
お屠蘇が苦手なヒトでもけっこうイケるといって下さいます。

その保命酒の話を、先般の漢方の講演会で、聞くことができた。メモがてらちょっとうんちくを書いておきます。

★養命酒と保命酒、どちらが古い!?

行き倒れのおじいさんが、助けてくれた信州伊那谷の大庄屋塩沢家へのお礼にと薬酒のレシピを教えたのが養命酒だったという。1602年、「天下御免満万病養命酒」として完成した。

一方、鞆の保命酒は、それより後の1659年に生まれている。

大阪の漢方医中村家の子息中村吉兵衛は、鎖国の時代、港長崎の出島に薬草の買い付けに向かう際、当時瀬戸内の港町として全国から多くの人々や物資が交わっていた鞆の浦に立ち寄っていたが、1653年の大阪大洪水の被害にあい、鞆に移住した。

そこで、当時鞆で作られていた旨酒(味醂)に、中国産の生薬十六種を漬け込んで薬酒、保命酒を造ったのが始まりなのだそうだ。

養命酒は赤穂浪士も養ったであろうと言われているそうだが、保命酒もこれまた名だたる人々に飲まれてきた。

★保命酒を飲んだ人たち

歴史に名を残す多くのがこの保命酒を愛飲したとされている。

・日本外史の頼山陽が愛飲。しばしば鞆を訪れている。

・朝鮮通信使、三条実美。保命酒をうたった詩文が残っているそうだ。

・平賀源内。1752年の長崎遊学の帰りに立ち寄り、鞆の津で陶土を発見し陶器作りを伝授していることから、おそらく飲んだことだろう。

・蘭学者の高野長英。長崎のシーボルト鳴滝塾に学んだ長英は、長崎への道中で立ち寄っているはず。蛮社の獄後、脱獄し、一時広島の三滝に身を隠していたこともあるとか。

・シーボルトも、長崎から日本各地を行脚した際、福山はおそらく立ち寄っているらしい(1826年)。

・ペリー提督。福山藩主阿部正弘は、当時老中職で、日米和親条約締結後の接待に、食前酒として保命酒を出している。

ペリーの記録に「大変立派なリキュールで感心した」とあるそうな。

・坂本龍馬:海援隊のいろは丸が紀州の明光丸と衝突して沈没したのは、瀬戸内海の備中・六島沖(鞆の沖)。坂本竜馬と海援隊は鞆の浦に上陸し、船問屋の升屋清右衛門宅に数日間滞在しているので、おそらく飲んでいるはず。

・江戸幕府歴代将軍も・・・!? 保命酒は、福山藩の庇護を受け、藩主水野家の御用酒として5代、松平氏1代、阿部氏10代に渡る。幕府への献上品でもあったので、おそらく口にしていたのではないでしょうか。

こうくると、保命酒の味わいは16種の生薬の味に尽きない気がしてくるではないか。

★保命酒生薬の内容は・・・

保命酒を造っているところは現在鞆には現在6社が保命酒を造っているが、配合の生薬全てを表示しているところは1社しかない。

その表示によると・・・

地黄、センキュウ、芍薬、当帰、沢瀉(タクシャ)、茯苓(ブクリョウ)、白朮(ビャクジュツ)、肉桂、甘草、杏仁、葛根、丁字、砂仁(サジン)、山茱〓、山薬、檳椰子(ビンロウジ)、の16種となっている。

薬用養命酒には、桂皮、紅花、地黄、芍薬、丁字、人参、防風、ウコン、益母草(ヤクモソウ)、インヨウカク、烏樟(ウショウ)、杜仲、ニクショウヨウ、反鼻(ハンビ)の14種。

いずれも、滋養強壮、胃腸障害、血色不良、冷え症、肉体疲労、疲労衰弱等に効果がある生薬ばかりだが、専門家が保命酒の配合をみると、六君子湯*(&四君子湯*)、十全大補湯*、補中益気湯*、四物湯*、八味丸*など、漢方処方を基本としていることがよく分かるらしい。

この解説だと、なんだかスゴイお酒のような気がしてます・・・が、よく考えたら、お屠蘇同様、たとえ1合の薬酒をのんだとしても、あのティーバック式になっている2,3g程度の屠蘇散の成分に過ぎないのだから、薬としての効果はあまり期待しないほうがいいかもしれません。まあ、酒もお茶も薬のうち。健康酒として、楽しむとしましょう。




*六君子湯:水分の滞り、氣の滞りに有効で、食事を食べようと思えば食べられる程度の症状なら「四君子湯」、食べられないときは六君子湯。

*十全大補湯:気血共に虚した者、疲労衰弱、貧血、神経衰弱などに。

*補中益気湯:心身共に疲労、息切れ、下痢、夏やせなどに。

*四物湯:胃弱ではないが、ヘソの上に動悸がある、皮膚が乾燥する、夫人緒疾患などに。

*八味丸:特に中高年者の強壮、疲労回復、体力増強に。




2006年12月11日月曜日

ムスリム・グロッサリー

神戸山手で立ち寄ったムスリムモスク付近のグロッサリーで・・・アリマシタ!

昨年ロンドンのボロウマーケットで見つけて以来、ずっと気になっていた、丸ごとドライレモン(イラン産)。「HAJJI BABA」。
これは、紛れもなくスパイス。

乾燥すると、フレッシュとはひと味違った香りになる。
山椒や花椒、陳皮、柚子・・・乾燥させて、独特の香りを引き出す。


アラブでは、スープに加えたりして使うそうだ。トムヤンクンの仕上げに一絞り加えるライム果汁のように酸味と清涼感のある香りが、食欲を促進してくれるに違いない。
そのまま部屋に置いておくだけで、柑橘系の香りが漂います))))。
お風呂に入れてもいいかなぁ)))と思ったけど、これはレモン丸ごとなので、お湯に浸すと酸が出てくる。

神戸の思いがけない収穫でした。

2006年12月5日火曜日

「何故日本人は、フランス料理を選択したか」(2)


1814年、ウイーン会議。ナポレオンが敗れ、領土分割の為集まった各国の代表に、フランス外交官タレーランは、豪華なフランス料理とシャンパンを振る舞って懐柔し、会議を引き延ばし、危機を救った。

胃袋作戦というべきか・・ともあれ、これに殉じて欧米では、外交の席で、フランス料理が用いられるようになったのだそうだ。

日本は、アジアの中の「欧米」となることを選択した。

江戸の日本がいきなり欧米たらんとは、かなり強面な対策だが、欧米の圧倒的な経済力と同時に、道中立ち寄った港、港で植民地となったアジアの国々を目の当たりにしたのだから、危機感、切迫感に押されての選択無き選択だったことだろう。

政府が富国強兵の流れの中で積極的に取り入れた西洋料理。食材や調理道具の入手からして、庶民にはかなり敷居が高かったのは言うまでもない。それでもなんとかかんとか、ジワジワと日本に浸透していった過程には、どんなことがあったのだろう。

西洋料理のアンテナショップ、西洋料理店。

外国への旅客線に乗り込んだシェフたちは、フレンチを主体に料理を出していたが、なんせ当時の旅は、何週間にも及ぶもの。時々は米を食べたくなる日本人の為に、ごはんにも合う洋食を考案したりと、レパートリーにも創意工夫がなされていったという。そのシェフたちが、舟を下り、洋食屋を開業し、丘の庶民も賞味に預かるようになる。

この辺りは、なんだかフランス革命後、宮廷の料理人が職を失いレストランを開業するようになって宮廷の豪華な料理を庶民が口にできるようになる下りとなんとなく重なって、面白い。

歴史も、食文化の見地からひもとくと、また違った楽しみ方ができるというもの。

『知るを楽しむ』思いがけず、いい勉強になりました。

◆ ◆ ◆

作曲家は、死後100年経たないとその曲は「クラッシック音楽」と認められないとか。料理の国籍も、著作権期限を待つみたいに時間を経なくてはいけないということか)))。

カステラも天ぷらも、元は欧米から伝来したものだが、数百年を経て、現在ではすっかり日本を代表する料理になった。海外でまるで日本食の代表格の扱いであるにぎり寿司も、江戸時代に生まれたファストフードだ。

西洋料理店で出されていたオムライス、カレーライス、シチューにロールキャベツ・・・今ではすっかり家庭料理の定番メニュー。冷蔵庫にバターが常備されていない家庭も少ないだろう。欧米食は、私達の食生活の一部となっている。

料理は、いつでも庶民文化の中でアレンジされ、身近な食べ物や馴染みの食材で工夫を凝らされ代わっていくものである。

そう思うと、ナポリ市民にはお叱りを受けそうな、あの、ケチャップで炒めたスパゲティナポリタンもなんだかとても感慨深いではないか。

料理の国境は、しなやかなであっていいのではないかなと思う昨今。




2006年12月1日金曜日

「何故日本人はフランス料理を選択したか」(1)

先日、料理研究家のFさんから、伺った面白い話。

政治家は、英国人
料理人は、中国人
エンジニアは、日本人
恋人は、イタリア人
銀行家は、スイス人

ーーーーーーーーがいいそうな。

反対に、最悪のパターンは・・・・というと、

政治家は、日本人
料理人は、イギリス人
エンジニアは、中国人
恋人は、スイス人
銀行家は、イタリア人

ーーーーーーーーなのだとか。

そんなお話を伺ってひと笑いしたところ。

NHKの『知るを楽しむ』という番組で「何故日本人は、フランス料理を選択したか」という話をしていた。

開国後不平等条約を結ばされ、欧米との国力の差を思い知らされた日本は、岩倉具視使節団を派遣し、欧米を研究。憲法はドイツ、産業はイギリスを手本にし、外交の為の料理には、フランス料理を・・・と、積極的に欧米の文化を取り入れた。

あれれ、さっきの話とはちょっと違うゾ。

当時の外交というのは、ヨーロッパの宮廷外交が主流で、そこで、フランス料理は欧米外交の基本だった。

そこで日本は、フランス料理を世界の最高のものと理解し、外交や正式な席にはフレンチを選んだのだそうだ。明治時代になると、天皇主催の晩餐会、午餐会は全てフレンチが出されるようになったという。

かつての献立記録が残されているが、千年にも及び獣肉をたべる習慣が無かった*にもかかわらず、早々たる本格的フレンチが並んでいる。(*天武天皇が、仏教の戒律に従い「殺生禁断の詔」を出して以降、脈々と受け継がれた感覚だった。)

江戸時代も5代将軍綱吉の「生類憐れみの令」で、そんな戒律に受け継がれたものが極端な形で現れたと見れなくもない。開国交渉の場でも、食料として牛を渡すように言ってきたペリーら一行に対し「牛は農耕に欠かせない大切な労働力だから」と、断固として"NO"といい続けた日本政府・・・・。

それが、一転して肉食解禁、肉食奨励という風潮になったというから、世の人々は、さぞや戸惑ったことだろう。

・・・と思いきや、たちまちブームになり、すき焼きや味噌鍋が一般でも食べられるようになったという。

大正時代には、女学校の家庭科の教科書に、カレーライスやトンカツ、コロッケなどの洋食が掲載されていたというから、なんとも日本人とは、節操がない民族だろう。いや、短期間の間に御飯にも合う料理にアレンジされて家庭の食卓に上るまでに浸透するのだから、器用で柔軟な民族というべきか。

それでも、バターが苦手な人など結構いたみたい。

「バタ臭い」の「バタ」は、オバタリアン、ドタバタ、アバタのバタかと思っていたら「バター臭い」から来ているらしいから、明治以降生まれた言葉ということか。)))

カステラは、"バタ臭さ" を排除して卵と砂糖、それにハチミツ、味醂だけで作られた、日本オリジナルのお菓子。バター好きもバター嫌いも、おそらく大好きなお菓子だろう。

今、JETROにより日本料理の規定を布こうとする動きが起こっているが、コレ、外国で生まれる「カステラ」的料理への批判にならないといいけどなあ)))。

外国人のお客さんには、是非カステラをお出しして、一興講じては、いかがでしょう。

<つづく>