2007年2月27日火曜日

ゴブラン会のこと


日本人シェフとして初めてミシュランの星を獲得したグランシェフ、中村勝宏氏が会長を務めるゴブラン会。


フランス修行時代、修行仲間たちと悩みや苦労、そして夢を、ゴブラン橋の袂で語り合い励まし合ったことから、日本においても食に関わる人々の情報交換やモティベーションを上げる機会をつくろうと発足(1992年)した「食を創る人」「食を提供する人」「食を愛する人」の三位一体の会だそうだ。

年に数回、食文化に関わるエクスパートを招いての講演会や賞味会等を主催しており、これまでの講演会は、醗酵学でお馴染みの小泉武夫先生、国立民族博物館館長の石毛直道氏、イタリア食文化研究家の馬場裕氏をはじめ食の研究者らによるもので、今回で12回目。

今年は、パリ日本文化会館初代館長(現理事)の磯村尚徳氏が講演なさった。氏は本会の名誉顧問でもある。1950年代後半~現代に至るまでの日仏の料理の推移を、ジャーナリストとして、食通として、日本人としての視点から常に至近距離でとらえてきた方だ。あの、辻料理学園創立者、辻静雄氏がフランス留学中もパリで共に過ごし親交を深め、☆をもらう以前のロブションやポール・ボキューズらの料理も食し、数々の名シェフが世に出ていく姿をつぶさに見てきたという。

御年77才。海外通で常に外交の場の第一線で活躍された磯村氏の人生は、日本の洋食文化の歴史そのものでもある。

以前ブログで書いた「フレンチ外交」の話、村井弦斎の『食道楽』と、磯村氏のお話が頭の中で繋がり、近世からの日本の食文化の推移の輪郭がおぼろげながら見えてきたような気がする。

さて、賞味会の「ビュッフェ料理の真髄」について。
ホテル・メトロポリタンエドモンドの宴会フロア全室を会場にし、フレンチを中心に、中華、和食、デザート、ワイン、チーズのコーナーに分かれての大演出。特に、冷製10品、温製16品、デザート16品の洋食料理は、料理というより「作品」である。

中には、古典料理の再現モノも・・・。このような料理には滅多にお目にかかれない。よく見るとなかなか骨太のフランス人の食を感じさせる。

見とれて写真を撮っていると、みるみる料理が無くなっていっちゃった。

これだけの料理を配しても、200人もの人が皿を手に取り始めるとあっという間である。

是非とも賞味したいと思っていた料理の半分も食せなかった(涙)けど、目にも美味しい料理達であった。

2007年2月23日金曜日

ゴブラン会「現代ビュッフェ料理の真髄」


食の祭典 であり、 シェフの発表会
「現代ビュッフェ料理の神髄」に行ってきました!
左上&右下「オードブルとアミューズ・ブーシュの盛り合わせ」
左下「花ズッキーニの詰め物とムール貝添え」右上「豚足の網脂包み カタロニヤ風」


「オードブルとアミューズ・ブーシュの盛り合わせ」more and more!!

   左上より「バケット」
   「台湾産科もの姿香港風窯焼き」「鹿児島産黒豚の肩ロース広東窯焼きチャーシュー」
   「フランス・イタリア・スペイン産チーズのプラトー シチリア産蜂蜜と各種フランス産ジャム添え」
   左下「鹿児島えこふぁーむの豚で作った自家ジャンボンのブレゼ・パパイヤ風味」
   右下「牛胃の詰め物ブレゼ・リヨン風」

2007年2月16日金曜日

スフレオムレツ




神田・フルーツパーラー万惣のスフレオムレツ。
朝食代わりには、ちょっと軽すぎましたが、ちょっとスペシャルな気分を楽しみました~。

2007年2月5日月曜日

中山神社(じんしゃ)


愛新覚羅 浩さんの本『食在宮廷(食は宮廷にあり)』を読みました。

昭和36年に初版されたものに次女の〓生(こせい)さんが校正を加えられ1996年に復刊されたもので、清朝宮廷の食事や歴史、そして宮中料理160品あまりのレシピがまとめられています。

愛新覚羅浩さんは、料理に対して大変関心が深く、満州国の溥傑に嫁いだ頃から紫禁城に代々勤めてきた名人級の料理人に直々に宮廷料理を学びばれたそう。

いわゆるお妃教育として身につけられた教養---清朝の政事や料理の変遷、中国、清朝の秘史など---や、宮中での生活体験を併せ持つ浩さんの記述は、視点が料理におかれているので、清朝や皇帝の生活についての叙述も大変わかりやすく興味深い。妃としての「料理交流」を実践され、晩年まで手料理で客人をもてなすことを楽しまれたようです。

浩さんといえば、「流転の王妃」。著書『流転の王妃の昭和史』はドラマにもなりました。

終戦後の混乱に巻き込まれ、幼い〓生(こせい)さんを抱えて家畜同然の扱いを受けながら1年4カ月もの間、中国大陸を流浪させられ・・・。

浩さんが書き綴っていた料理や清朝についての記録は、その殆どを戦渦と流転の日々の中で失ってしまったとのことですが、日本に書き送った手紙や記憶を元に、この本をしたためられたとか。

下関の中山神社の境内には愛新覚羅社があり、浩さん、溥傑さん、そして長女の慧生さんが祭られていると聞き、行ってきました。

’87年、溥傑さんは、北京で亡くなった浩さんの分骨に来日され、中山神社を2度訪れています。
激動の時代、混乱の中で生き延びた物語はどれも壮絶ですが、国を背負ったお二人のそれは、歴史の証人としても一層深いものがあります。

鎮座祭の折、溥傑さんと言葉を交わしたある方によると、溥傑さんは、とても穏やかで、知性溢れる方だったとか。映画『ラストエンペラー』の感想を尋ねられると、こう答えられたらしい。
「映画は、素晴らしかったです。大変よくできていました。でも・・・、東洋人の心は(欧米人には)わかりません。」
否定のない寛容に包まれた口調だったといいます。

神社には溥傑さんの穏やかで理知的なお人柄がにじみでている字が刻まれている石柱があります。

決して遠くない歴史に思いを馳せるひとときでした。

中山神社は、日本海を背に南を向いているけれど、その敷地内にあるちいさな愛新覚羅社は、西北方、玄界灘のはるか彼方の中国大陸に向かって建てられています。