2020年3月31日火曜日

フレグランス・バイオレンス

歴史談、ちょっと中休み。

「フレグランス・バイオレンス」という言葉を最初に耳にしたのはもう何年も前のこと。
確か、過剰な香水の使用についての表現だったと記憶しています。

化粧品の香料はもう昔からのことですし、ハンドクリームや洗剤のフレグランスはまあ仕方ないのかな〜と、なるべく優しい香りのものを選んで同じメーカーのものを使い続け、まあ受け入れて来ました。
トイレットペーパーの淡い香りなどは、まあトイレだし、悪くないか・・・なーんて思ったりもしていたのですが・・・・。

あれ!? 香り(いや、匂い)の質が変わったな、と思うことが。

近年、こんなことが増えまして、残念な気持ちです。香料分でコスト削減を図ったのか、これまでの香りでは物足りないとする輩が増えたのか・・・?

とにかく香りがキツくなった(!)。

人工の香りに浸っていると、だんだん麻痺してきて、みんな、自然の香りでは物足りないようになってきたのではないか。

世の中は、ナチュラル嗜好へと推移している動きがある一方で、こういうモノはどんどん人工になっていってる。オーガニックコットンの洋服から柔軟剤の香料の香りなどしてきたら、なんだあかとっても残念な気持ちではないでしょうか。


香料と同じことが、食べ物にも起こっています。

アミノ酸を強調した市販のタレやソース、加工食品にまみれているうちに、自然の味に物足りなさを覚える味覚の方が増えているのでしょう。

熱湯でいれたお茶が「甘い」のはおかしいし、出汁の香りは立たないのに出汁味がガッツリする和風仕立てのお総菜。
思えば、いつの間にか、出汁(だし)は、だし汁と、NHKのアナウンサーまでもが言うようになっています。
「出汁」はそもそも「汁」。粉出汁が生まれて区別する為に「だし汁」と言われるようになったのでしょう。もう、それが当たり前の時代なのです。

昨年秋に、或る友人が、和食の講座を受けたら、松茸御飯に「料理屋ではこうやってます」と、松茸のエッセンスを数滴落とされたことに、とても残念な気持ちになったとこぼしていました。確かにとても残念な話ですが、この料理人さんはお客様に「香りが足りない」とか言われたことがあるのか、はたまたご自身が「物足りない」とお感じになるのか・・・。

出汁が香る時のなんともいえない幸福感。そして自然の食材が放つ香り。)))
これらを感じ取れる嗅覚を維持するには、日頃から余分なものが入っていないものを食べていることです。 アミノ酸や出汁エキスの名前で添加されるものは、腸内でミネラルを奪い、亜鉛不足など味覚オンチの方向へ体質を変えていく成分でもあるのです。


出汁に加えてもうひとつ。
それはお茶の香りです。
バブル世代の私が若かりし頃「フォションのアップルティーとチーズケーキ」という組み合わせが流行りました。
生まれたときから、豊富な種類のケーキに恵まれていた世代には「???」かもしれませんが、70〜80年代は、ケーキ屋さんのショーケースに増えていくレパートリーの一つ一つに小さなブームが起こったものでした。
あのアップルティー。美味しいと思っていたけれど、いつの間にかすっかり飽きてしまいましたし、90年代後半の密かなマイブームでいろいろ飲み比べしたアールグレイも、一部のメーカーのモノを除いていつの間にか興味を失なっていました。

香料の香りは飽きる!

自国のお茶をもつ日本人が、紅茶をスルーして一気にコーヒー党に流れていったのは、香料浸けになった時代を経てのことではないかしら??
そんな風にも思ったりするのですが、嗜好品としての香料茶はある程度の支持をえているようでもあります。


私は、香料フリーのお茶を切望します!
紅茶や烏龍茶などの発酵茶には、香りを表現するにあたって「フラワリー」なんてのがあります。自然に生まれる花を連想させるようなほのかな香り。
これを楽しめるのは、なんとも贅沢なひとときなのです。
このテの芳香は、粘膜を伝い脳へ運ばれ、記憶に深く刻まれるようでもあります。

味覚センサーは健康のバロメーターでもあり、味蕾細胞の代謝はスピーディーで、味の記憶はとても不安定なもの。
でも、刻まれた香りの記憶は別の役割がありバックアップ機能を果たしているようです。

ノー・モア 食べ物の「フレグランス」です。

おうちの時間をちょっと少しだけ特別に変えてくれるお茶。やっぱりそのままの美味しさであって欲しい。

2020年3月27日金曜日

パンデミック エピデミック(6)8−9世紀 延歴・貞観の疫病

3回に渡って6〜8世紀までの話を書いてきました。
大和〜奈良時代は、とんでもインターナショナルでビックリです。
遣隋使、遣唐使、そして朝鮮半島との往来・・・。
この時期、文化的躍進がみられたというのも、よくわかります。
日本からの遣唐使を中断している間も「朝貢に来い」と要請の使者が来たりしています。
一方で、平安時代に入ると少し内向的になっている印象ですが、大陸側は乱世ですので、沢山の難民が日本へ逃れ来たことでしょう。
継続的に疫病に悩まされているところへもって、立て続けに自然災害が降りかかり、被害が大規模になっていった様子がうかがえます。

細々とした解説は省略して、以下、ちょっと年号順にならべてみます。
紫:疫病の状況
緑:大陸の状況

● 794年「な(7)く(9)よ(4)うぐいす平安京」
桓武天皇(50代)の時代になりました。

● 796年 平安京建設中にもまた天然痘大流行。
 皇太后、皇后が病死、皇子も重篤。 
 これは冤罪で追放した早良親王の祟りか!?と、例によって「死者に位を与えて弔う」という対応をしますが、魂ではなく病原菌の問題なので、治まるはずはありません。
 
● 屠蘇散が唐から伝えられる。嵯峨天皇は、桓武天皇から2代後の天皇でした。
 嵯峨天皇(52代)が宮中で屠蘇散を一晩お酒に浸して宮中行事で振る舞ったのが、お屠蘇の起源とされています。
大陸からは疫病も来ましたが、漢方薬も持ち込まれました。正倉院には、聖武天皇、光明皇后ゆかりの品々を始めとする天平以来の美術工芸品に加えて沢山の生薬・薬品が納められていました。

● 861年 赤痢の流行

● 863-864年 咳逆(日本初のインフルエンザ?)の流行

● 864年 富士山・貞観の噴火
  文献記録に残る富士山噴火のうちで最大規模とも言われているらしいです。
 (ちなみに最寄りの噴火は、江戸中期の1707年、宝永大噴火。)

 867年 新羅で疫病と飢餓
 →新羅難民が海賊となってやってきて、博多、対馬、壱岐へ入港。

● 869年 貞観の大地震〜三陸津波  
 ※2011年3月11日の東日本大震災と同じ規模の地震と津波が起こったと、よく参照されるのがコレ。

これはもうきっと、全国的に死体ゴロゴロの状態です・・・・。
もはや早良親王の祟りでは済まされない事態。
疫病=祟りですから、この頃、怨霊や物の怪が見える陰陽師が大活躍。
「きっと、これまで全ての怨霊が降りかかってきたのだ・・!」
そう考えた(陰陽師にそう伝えられた)清和天皇(56代) は「皆を全て一緒に祀りましょう!」と、同年、鎮魂の為の「御霊会」を行います。
これが「祇園祭」の起源です。
オー・マイ・ガー!・・・疫病蔓延時に「祇園祭」! それこそ感染爆発、集団感染になっちゃいます!! 疫病が静まる訳ないですねえ)))。

● 875年 唐で黄巣の乱(農民反乱)

  894年 遣唐使廃止  
 唐では15代皇帝の武宗による仏教弾圧(「昌の廃仏」)が。
 菅原道真は第20回目の遣唐使のはずでしたが、唐の状況からキャンセルを進言。

● 907年 唐滅亡   
 大陸は「五代十国」(多くの民族が各地に乱立する時代)に。 

● 915年 十和田火山(青森) 噴火 
 秋田一帯に灰が降る。(「日輝かず 月の如しの出羽国・・・」/『扶桑略記』より(十和田湖は、この時の噴火で出来たカルデラ湖)

   同年、京で痘瘡流行

● 926年 渤海国滅亡 遼(契丹)*により滅ぼされる
※モンゴル系の半農半牧の民族で朝鮮の北部〜華北の一部で活動していた。唐の滅亡、五代十国の混乱から逃れてきた漢人を取り入れ強大となり、渤海国を滅ぼす。後、遼(916~1125)となる。

● 935年 新羅滅亡  高麗(918 -1392年) により滅ぼされる
※高麗は新羅を滅ぼしたことで朝鮮半島を統一。李氏朝鮮が建てられる1392年まで続いた。

● 931-938年 平将門の乱

● 946年 白頭山(現在の中国吉林省と北朝鮮国境にある長白山2744mh)の噴火 
 世界最大級の噴火で、噴火の規模は、ナポリのベスビオ火山を大きく上回る程で、
 広範囲に灰が降ったらしい ----奈良でも降灰の記録あり。

● 974年 天然痘の流行
 この時も、藤原家は挙賢、義孝兄弟が同時に病死しています。

 君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな 
 
百人一首にある有名なこの歌は、藤原義孝が闘病中に詠んだもの。21歳だったそうです。

● 995年 関白 藤原道隆、道兼の病死

藤原氏の摂関政治がピークの頃も、関白を務めた藤原兼通の息子たち、道隆、道兼が疫病で亡くなっています。兼通の五男が、『源氏物語』の光源氏のモデルとも言われる藤原道長。兄たちが亡くなり、彼に関白のお鉢が回ってきたのでした。

“『源氏物語』(1008年頃)が、男女の愛を軸にしながら「もののあわれ」を強調する背景には、権勢のはかなさ、人生の短さ、愛の不確実さ以上に、この不測の感染症の大惨禍の記憶が背景にある”  
 - - - と、『人類と感染症の歴史』の著者加藤茂孝氏は記しています。

日本の美的理念でもある「もののあはれ」は、疫病の影響下で生まれた!?

ちなみに、藤原道長(享年62歳)の死因は、疫病ではなく糖尿病と考えられています。

<つづく>

参考文献
「人類と感染症の歴史」加藤茂孝
「病が語る日本史」酒井シヅ
 「超日本史」茂木誠 など



2020年3月26日木曜日

パンデミック エピデミック(5)8世紀 日本 天平の疫病

645年 「乙巳(いっし)の変」(「大化の改新*」)

「む(6)・し(4)・ご(5)ろし」と覚えましたっけ。
今はこんな物騒な言い方より「む・じ・こ(無事故)の世作り」とか「む・し・ご・め(蒸し米)美味しい」と覚えるらしい。
でも、ムシゴロシの方が、出来事と一致している気がします。

622年に聖徳太子が、627年には蘇我馬子、そして628年には推古天皇が次々と亡くなり、時代はまた新しい局面へーーー。

馬子の子、蘇我蝦夷は益々勢力を増し、舒明天皇(34代)は、蘇我蝦夷の傀儡状態でした。
さらに蘇我蝦夷の息子 入鹿に至っては、権勢を振るうどころか横暴さが目に余る状態に。
そして、中臣鎌足(この人は物部氏派閥だった)と中大兄皇子(後の天智天皇)が、クーデターを起こし、蘇我入鹿を殺害しました。(お父さんの蘇我蝦夷もこの時自害。)
*この後、律令国家として整うまでの数年間に行われた改革を「大化の改新」という。

中臣は、息子 不比等の代で、天智天皇から藤原の姓を賜り、藤原不比等となります。
藤原一族は、天皇家(後の聖武天皇)に娘・光明子を嫁がせたり4人の息子達(藤原四兄弟)を政府高官にしたりして、藤原政権を築いていきました。 
「この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ藤原道長の繁栄も、ここが起点だったのです。

元々は保守ナショナリストの流れを汲む藤原氏ですから、グローバリゼーションは、少しスローダウンしたのかな・・と思ったら・・・
なんと大陸との戦争をやらかしています(!)。


663年 白村江の戦い (百済 &日本 v.s. 新羅・唐の連合軍)

この頃の大陸との関係を見ると、日本は百済と良好な関係をもっていたようです(というより天智天皇は、過度の肩入れをしていた?)が、新羅による朝鮮半島統一の動きがあり、新羅は唐の力を借りて百済を挟み撃ちにして滅ぼそうとします。百済は、日本に援軍要請。
それに応じた日本でしたが、白村江で大敗してしまいます。
結局百済は滅ぼされ、王侯貴族をはじめ沢山の百済人が日本に逃れてきました。

この頃の唐でといえば、丁度、高宗&武則天の垂簾政治の頃です。
この戦いの後、日本はこの後30年、遣唐使は8世紀の玄宗帝(楊貴妃を見初めたあの皇帝)の時代になるまでお休みになります。 
(※唐からは、朝貢を要請する使者が何度か来ていたみたいですが。)

ちなみに、第1回遣唐使は、630年「む・さ・れ(蒸され)て海渡る、遣唐使」という覚え方があるようです。
年号早覚えは内容と意味が一致せず、無理矢理こじつけたものも多々あるけれど、「蒸されて」船内は過密で湿度が高く不衛生だったかも?なんて思えて、これには何となく受け入れやすい気がします。
8回目で中止になり、9〜19回まで続き、20回目の予定だった894年は中止=「は・く・し(白紙)に戻す、遣唐使」です。
学問の神様として祀られている菅原道真は、最後の遣唐使に行くはずだったメンバーのひとりですが、玄宗帝(在位712~762年)が楊貴妃に溺れている間に起こった謀反の反乱「安禄山の乱」以降、芳しくない状況がつづき、唐末期にはすっかり治安も乱れて物騒になっており、そんな唐に優秀な人材を送ることはなかろうということで取り止めになったのでした。

907年、唐は滅びますが、唐が衰退する中、日本では、疫病の大波が2波も来ていました。
それらは、藤原のご子息が全滅になる 「天平の疫病」、自然災害が大きく関わる「延歴・貞観の疫病」です。


8世紀 天平の疫病
    〜藤原四兄弟の死、大仏建設へ〜

天智天皇の後、大友皇子と大海人皇子の跡目争いを「壬申の乱」(672年)といいます。
これは実は、親唐派 v.s.親新羅派の争い。

大国唐とその端っこの半島でかろうじて独立を保っている朝鮮半島の三国、そして島国日本。
唐は、大国とはいえ異民族に囲まれ常に「大国」として君臨している(時にはそのように見せる)ことで辛うじてバランスを取っている。

新羅は、百済に続き高句麗を滅ぼします。これまで唐との間に位置してある意味クッションとなっていた高句麗。その高句麗を追いやると、新羅が唐と「隣り」という形になり関係性が変わります。(お隣とは上手くいかないのが常なのだ。)新羅は日本を身方につけておくことが必要となって、日本に朝貢するようになるのでした。
しかしながら、高句麗に付属していた一族が高句麗の残党と共に渤海国を建て高句麗の地に復活します。新羅は、また唐との関係が大切になり、日本への朝貢をやめて唐へ朝貢することに。あっちに付き、こっちに付きするこの辺りの立ち振る舞いは、気まぐれな印象ですが、大国の端の半島で独立国家を維持する難しさが現れているともいえます。

さて日本。
中国や朝鮮半島と、うまくバランスを取らなければならない難しい状況がつづく中、世は藤原の繁栄を迎えていました。

中臣鎌足の孫達(藤原不比等の子供達)藤原四兄弟は、皆高官となり、娘の光明子は聖武天皇の皇后となり、その間に男子も生まれて藤原家安泰〜♪ と思ったことでしょう。
が!
次の天皇にしようと思っていたこの男子が、直ぐに死んでしまいます。
藤この死を、常々藤原独裁状態に異議を唱える疎ましい存在であった長屋王(天智天皇の孫で天智天皇の娘の子で聖武天皇の従兄弟/皇位継承権がある)による呪詛(呪い殺した)だということにして、長屋王を排除(死に追いやる)したのです(729年)。

「因果応報」とは、仏教の教え。
人を貶めて掴んだ地位もお家の繁栄も「諸行無常」。

繁栄の影に疫病が迫り来ていました。

735年 またしても疫病大流行(太宰府)
737年、平城京の都でも疫病大流行

この時は、なんと人口の1/4が亡くなったといいます。
藤原四兄弟、そして光明子(聖武天皇皇后)まで皆、疫病で死んでしまうのです。

これは冤罪で死に追いやられてしまった長屋王の祟りではないか!?
ビビった聖武天皇は、既に亡くなっている長屋王に太政大臣の地位を与えてみたり、全国に国分寺、国分尼寺を建て、さらに東大寺、そして大仏を建てるのです。

752年、「優しいお・な(7)・ご(5)・に(2) 似た大仏様」と覚えたなあ〜。)))
世界遺産も、疫病のせいで造られちゃった!??

東大寺 大仏の開眼式典には、新羅から700人もの人が来て参列したそうです。
ちなみに756年にも疫病(麻疹?)の流行がありました。

<つづく>

参考文献
「人類と感染症の歴史」加藤茂孝
「疫病と世界史」ウィリアム・H・マクニール
「病が語る日本史」酒井シヅ
 その他、世界史、日本史の本(随時[ ]にて記す)


2020年3月24日火曜日

パンデミック エピデミック(4)6世紀日本(つづき)

崇仏か排仏か。
敏達天皇の時代になっても疫病の蔓延は治まらず、世も乱れます。
仏教を取り入れたことによる(神道の)神の祟りだと、物部氏により再び多くの仏像や仏塔が破壊され、蘇我氏は徹底抗戦へ。
587年「丁未の変」。蘇我氏によるクーデター。
蘇我馬子は、物部守屋の一族を殺害。物部勢力を宮廷から一掃することに成功し、一気に政局は変わります。
この後、蘇我氏は、推古天皇(33代)の摂政となる厩皇子(聖徳太子)らと協調して、更に権勢を強めていくことになるのです。

厩皇子らは、当時の朝鮮半島三国---新羅、百済、高句麗の緊張関係も鑑み、遣隋使を送り積極的に隋の政治制度や仏教、儒教を取り入れ中央集権国家体制を築いていきました。
遣隋使に朝鮮半島との往来・・・それはもう頻繁に、往き来があったようなのです。 

そうなると・・・ああ、疫病大丈夫かしら??

仏教の力を借りて、疫病を押さえ込もうとするのですが・・・・こればっかりはそうもいきませんでした。
疫病は、やんごとなき身分の方々---皇室や貴族層にも蔓延し、実は、敏達天皇の後の用明天皇(31代)も、疫病によって亡くなっています。(「病が語る日本史」には敏達天皇も物部守屋もにわかに病んだとの記述もあります。)

用明天皇しかり、疫病を煩った人々は心から「仏教を拠り所としたい」と思ったようです。それはきっと、仏教が、死を不浄(穢れ)として恐れる神道とは異なり、亡くなると成仏(佛と成る)するとして死後の世界について癒しに繋がる世界観を含んでいるからではないかと思います。
そんな祈りが、奈良の大仏建造のエネルギーになっていくのです。

疫病が、大陸との往来が盛んに成るのと同時に蔓延したことは否めません。
だから外国から一方的にもらったような筋書きになってしまうのですが、疫病は、自然環境や紛争による飢餓や不衛生な環境などがあって発生するもの。大陸との往来には、大陸人も日本人も関わり、命がけにもなる大変な船旅を経ること必然なので、疫病が発生やすい環境が常にあったとも言えるのではないでしょうか。
歴史の節目節目には、自然災害や政変・紛争、それに伴う環境の悪化があり飢餓がある。さながら疫病が歴史を作ったかのようにも見えます。

こうしてみると、目下のコロナのパンデミックも、なんらかの政変または自然からのメッセージ or サインなのかもしれません。
ただ、歴史にある疫病と大きく違うのは、私達は神の「祟り」ではなく「病原菌」であることを知っています。
正体がはっきりしているのだから、後は正確な情報を得ること。そのことが、冷静さを保つ為に必要であるとも感じます。
しっかりとした情報がまだない中で、今出来ることは、衛生環境をよくすることと、しっかり栄養と睡眠を取ること、ストレスの回避、密集を避けること。そして「感染爆発」にならないよう、時間稼ぎをすること。物事の優先順位を冷静に判断することetc..

予定していたことが予定通りできる日々は、ありがたい日々だったことを改めて痛感する今日この頃です。

<つづく>

*天皇の名前や代、在位期間については、宮内庁ウェブサイトにある、歴代天皇の系図をご参照になると分かりやすいです。
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf

2020年3月20日金曜日

パンデミック エピデミック(3)6世紀日本

日本で、歴史の勉強といえば、丸暗記。
そんな感じだった。
そして、世界史については、選択教科で殆ど学ぶ機会が無かったり。。。

しかし、日本史上にある諸々の事象の多くは、実は世界の動きと連動して起こっていた。
一見島国で純粋培養の印象すらある日本島も、日本海の荒波も台風も乗り越えて、古代から大陸と往き来し、少なからず影響を受け続けていた。

そりゃあ、容赦なく異民族の侵入乱入の恐怖に晒されてきた大陸の国々に比べれば、往き来もある程度「選択的」であり得た(そういう「時期もあった」と言うべきか?)
でも、お国がどんなに選択的であったとしても隙間で人々は往来してきた。

これまで、他国に比べれば、日本はかなり大らかに異国文化を享受してきたというイメージを持っていたけれど、本当にそうだったのかな??

古代〜中世 稲作、漢字、仏教・・・ひょっとしたら国家という概念も!?

中世〜近世 鉄砲、キリスト教、通貨・・・そして世界という概念も!??


「その時、世界は?」と、照合してみた時、そんな単純なものではないことに気付かされる。
今も昔も、似たようなことが繰り返されていたということにも。

そして、歴史の節目節目には、しばしば「疫病」の流行が。



episode 1  
AD6世紀:欽明・敏達朝の疫病

6世紀半ば、朝鮮半島の百済から経文が届きます。時の天皇、欽明天皇(29代)は、仏教をどう扱うべきか、重臣 蘇我稲目と物部尾輿に意見を求めます。

新興で渡来人勢力とも連携していた蘇我氏は崇仏派。国際感覚を持って自身の勢力UPも図りたいと考えています。一方、物部氏は大和の王・神武天皇時代からお仕えし代々神事にも携わってきた由緒ある家系ですから、神道派で排仏派。異国の宗教、仏教容認には猛反対です。
グローバリスト v.s. ナショナリストという典型的な対立がこの時代にもあったというわけです。

※注釈:天竺(インド)で生まれた仏教は、中国〜朝鮮半島を経由して、日本へも伝わってきました。
6世紀前半にはジワジワ私的な信仰として伝来していたようですが、公伝(国家間の公的な交渉として伝えられたとする)は、538年(552年説もあり)とされます。
当時の朝鮮半島三国には4世紀半ばに伝わったとされ、高句麗ー百済ー新羅の順に公伝だったよう。大和朝廷と盟友関係にあった百済には若干遅めの4世紀後半(本格的に普及したのは6世紀初頭)、新羅には5世紀初めに伝わったといわれています。
当時中国(梁の武帝)に柵封されていた朝鮮半島では、仏教は、仏教に心酔していた梁の武帝の歓心を買う為の外交ツールでもあったので、日本に伝えてきたという訳です。

当時の日本では、既に渡来人(帰化人)も多かったので、仏教はジワジワ浸透し、お寺や仏舎利塔が作られていました。
欽明天皇は公式に仏教を受け入れるも、物部氏ら反対派へ配慮し、全面的な依り所とするのではなく私的な礼拝や寺の建立に留めました。

が! 仏教が広まると時を同じくして疫病の流行が始まりました。
物部氏は、日本古来の神々がお怒りだ!疫病は、仏教のせいだ!と、仏像や寺を焼き払うなどし、蘇我氏への牽制を強めます。

蘇我氏は神道をないがしろにしたわけでも無いし、物部氏一族の中にも仏教を受け入れている者もいたという話も。あくまで国家祭祀としての宗教をどちらにするかという意見の相違であったとする説もあるそう。また、仏教推進だけで無く、天皇擁立についての意見の相違も対立の原因であったという。

この辺りは政治的判断もふくまれることですから、勿論こんな単純な話ではなかったでしょうけれど、仏教伝来にも繋がる人々の往来で、疫病が持ち込まれてしまったようです。
(「疫病の世界史・下」付録・中国における疫病を見ると、この時期特に、中国での疫病大流行の記録は無いようです。)感染の経緯は不明ですが、歴史を揺るがす(神話以外に記録されているものの)疫病第1号として、ここに挙げておきます。

時代は欽明天皇から敏達天皇(30代)〜用明天皇(31代)の時代へ。
蘇我・物部両家の間の確執も次世代に持ち越しとなります。

<つづく>

2020年3月15日日曜日

パンデミック エピデミック(2)

3月11日、WHOにより、ついにコロナウイルスのパンデミック宣言がなされました。


マスク、消毒薬は不足するし、トイレットペーパーは商品棚から消えるし・・・と、パンデミックの前にパニック現象が起こったり、海外では中国人やアジア系が差別的な暴力に遭う事件などが起こっているとか。これらパンデミックの副産物的現象を表す「インフォデミック」- - - 情報の感染爆発」という言葉まで生んでいます。

インフォデミックは造語的だけれど、パンデミックとエピデミックの違いは??
改めて、辞書等で確認してみるとーーーー


● pandemic
接頭語のPan-には「全て」「あらゆる」「あまねくという意味がある。次の-demは「人々」の意。-icは、性質。
ロマンチック(romantic)もサイケデリック(Psychedelic)もアカデミック(Academic)も、接尾語で、「○○的」なんて風になる。
即ち、pan-dem-icは、全ての人々に広がる性質。広がっちゃう的な病気ということ。
世界的広がりを見せる病気はパンデミックということだ。


● epidemic
接頭語のepi-には、 「---上に」「---に向かって」とか、「---を越えて」という意味があるらしい。
エピソード(episode)=物語の間に挟み込まれる話 やエピローグ(epilogue)=納めの口上、結び。は、ちょっとわかりにくいけれど同じ接頭語。(ちなみにlogueは「談話」の意)
epi-dem-icは、近くを越えて人々に広がる性質がある病気ということで、伝染病を指す言葉みたい。

ついでにエンデミック(endemic)というのもあって、これは、en-(=その状態にする)という意味「特定の地域・グループ・時代などに特有の」という意味。「地方病」「風土病」を指し影響範囲が狭い病気に使われる言葉。
接頭語 en- は、エンジョイ(enjoy)のenであり、大きくする(enlarge)のen。

専門用語的に使われることがあったり、病気の期間のニュアンスを含んだりで、強弱での比較は適当ではないかもしれないけれど、pandemic > epidemic >endemic  みたいな感じのようです。




pandemicは紀元前から繰り返し繰り返し、世界各地で起こっているけれど、広く知られているのは何と言っても14世紀ヨーロッパのペストではないでしょうか。
古代の記録にも再々出てくる「ペスト」ですが、ペスト(pest)は本来ドイツ語で疫病のこと。だから必ずしもpest=black death(黒死病)ではなく、実は病状からして天然痘と見なされるものも多々あるようです。ちなみに英語でペストのことは「plague」。これも「疫病」の意味。
漢字では、やまいだれにネズミ(鼠)=「癙」と書くので、ネズミに付いたノミが媒介するペスト菌を一番適切に表しているといえるかもしれません。

<つづく>

パンデミック エピデミック インフォデミック(1)"気"のチカラ

先月中旬にギリギリ催行できたお茶会の“枕” は、パンデミックの世界史。
アテネ v.s. スパルタのペロポネソス戦争(BC5世紀)、アントニヌスの疫病(AD2世紀)〜中国では後漢の衰退が疫病に始まり、新興宗教 太平道が始まり、黄巾の乱に繋がった話、中世のペスト・・・時代は下ってスペインのアステカ文明滅亡をはじめ大航海時代以降の様々な疫病、第一次世界大戦により大々的に広がったスペイン風邪(1918-19) の大流行等々、歴史の節目節目に疫病の影響があったであろう疫病の歴史のお話。
ちょっと荒削りでしたが、今目の前に迫っていることに極端に怯えることなく少し冷静に向き合えるようにと、歴史に思いを馳せた「氣」のお茶タイムと相成りました。

中医学では、「氣」の働きを、大きく4つ(元気、宗気、営気、衛気)に分けて表現しています。宗気は血の巡りや呼吸のエネルギー、営気は臓腑をはじめ全身に栄養を送り込むエネルギー、そして、邪気の侵入を防ぐためのバリア機能=免疫力のエネルギーを「衛気」と呼びます。「衛気」というエネルギーにより、粘膜を潤わせ、抵抗力を備え、病気を寄せ付けない体作りがなされるとするのです。
もちろん、それには前述の3つの気も無縁ではなく、親から受け継ぐ先天の「元気(原気)」や日々の健康的な活動の中で取り入れ代謝されるのが宗気であり営気であり、また衛気でもあり、すなわち三位一体ならぬ四気一丸で、健康が守られているという訳なのです。

気が合う、気に入る、気が付く、気配り、気づかい、気丈、気迫、気合い、気楽、正気、気鋭、気配、気弱、気まぐれ、気詰まり、気疲れ、気が引ける、気が滅入る、気になる・・・etc.。

何気なく使っている「気」という言葉も、ひとつひとつ健康に影響しているということを、改めて裏付ける発想の起点です。
故、「病は気から」なんて言葉に通じる訳か。)))

科学的にいろいろ解明されてきている現代において、感染症という病については「気のせい」では済まされませんが、正気を持って気丈に根気強く気配りして取り組むことが大切なので、やっぱり気のチカラは大切ですね。

それこそ、インフォデミックの渦中に迷い込んで、気が滅入ったり、気づかいし過ぎて、気疲れしたり、気弱になって情報に振り回されたりしないよう、気丈に過ごそう!


さてワタクシ、仕事は無くなるし、遠方へのお出かけもままならない今日この頃。(とほほ)
せっかくなので、この機会に読書を楽しみながら、もう少し疫病を切り口に、歴史巡りをしてみたいと思っています。

<つづく>


2020年3月1日日曜日

コロナの影響でイベントの変更

下記のイベントは、中止(延期)となりました。
今後の動向を見て、時期を変えてやりましょうということにはなっておりますが、まだ日時はきまっておりません。また変更日がきまりましたら、こちらにUP致します。

◎ 藤の木公民館 (3月14日) 
    女性のための薬膳講座で香港の「ご馳走お粥」をご紹介予定。
 鶏スープを取り、お粥を炊き・・・ヘルシー料理はベースがキモ! 
 ・・・ということをお伝えしたいと考えています。
 奇しくも3月14日、ホワイトデー。
 何か美味しいスウィーツも考えておかなくちゃw。 
 お問い合わせは 藤の木公民館 082−927−2496迄




尚、自宅教室は、少人数制でもありますので、通常通り展開しております。

3月以降の教室は・・・
4/25(土)
5/6(水),9(土),10(日)を予定しております。

尚、NHKカルチャーは、4月開講(初回4/8)、第2水曜日です。