2008年7月31日木曜日

「山羊の角」 from Turkey





トルコのアナトリア地方で見かけた「山羊の角」とよばれるケチボユヌズ

イナゴマメというマメ科の植物の乾燥らしい。

子供が食欲が無いときなどに、煎じてジュースにして飲ませたりといった使い方があるらしいのですが、一足先にトルコを旅行した友人は、露天でこれを購入し、煎じて飲んでみたそう・・・。

そのコメントは・・・「干しバナナや棗のような味」。

果物のような豆・・・タマリンドみたいなのかな??

豆は豆でも、こちらは木になる豆。それも意外に大きな木・・・!

2008年7月30日水曜日

ひよこ豆




ひよこ豆の畑がありましたー)))。(コンヤ郊外)

畑のお肉大豆に並ぶたんぱく質の豊富なひよこ豆は、世界中のベジタリアンが重宝している食材。

ひよこ豆は直径1センチ近くもある豆だから、枝豆ぐらいの大きな枝で大きなサヤに入っている豆だろうと想像していたけれど、こんなかわいいサヤにたったの1粒ずつ入っているのでした。




2008年7月29日火曜日

ココレッチ





Kokorec Porsiyon


羊の肉のウュクルックという部位(1頭で100g程度しかとれないらしい)を、羊腸を細く紐状にきったもので巻き付けて炙り焼きにする食べ物。

腸は、牛乳で茹でて、蜂蜜に漬け込んで・・・と、1週間ぐらい下ごしらえがいるんだそうです。

意外に手の込んだ肝料理)))。

肝の料理法がいろいろあるのは、肉食文化を感じさせます。

(豚や牛のように、血を加工する料理はないのかな??)

モツ肉もこんな風にすると、ちょっとご馳走。

食べるときにはこれをまた細かく刻んでパンにはさんじゃうのだ。

イスタンブールのガラタ橋界隈では、焼き鯖を挟んだ鯖サンドが名物となっていますけど、鯖をパンにねえ・・・・。
つい「これは御飯となら美味しいだろうなあ・・・」と思ってしまいます。

トルコには、お米も料理も豊富ですが、やはりみなさんパン食なのですね。

2008年7月28日月曜日

肉食トルコ!?

飲食街にはどこからともなく漂う羊肉のにおい。炙り肉ケバブのドラムなどを、ここかしこに見かけるにつき「トルコの人は、きっと肉食なんだろうなぁ~」というのが、旅前半の印象でした。

ところが、実際日々トルコで外食を続けていると、やたらと煮込み野菜料理がつきまとう。

豊富な前菜「メゼ」(これが最も凝っていて美味しいので、これだけで食事が済ませられそう!)の殆どは、野菜と穀類&ヨーグルト。肉料理も、必ずといってよいほどその同量以上の野菜が付いてくる。

トルコはベジタリアンにも優しい国かも知れない・・・(???)

現地で接触した方々は、騎馬族、遊牧民族の末裔・・というよりは、ずーっと何世紀も農業をして暮らしてきたような農耕民族のような気風で、みな穏和でした。(まあ短時間だったからわからないけど)

アフリカ象とインド象、テリア犬とレトリバーぐらいの違いが、人間にもあるのかもしれないけれど、人の性質と食べる物には、少なからず関係があるかも。

アグレッシブなアメリカ人は、よく肉を食べてきたし・・・。
ペンで戦う作家も肉好きが多い!?
(あ、選挙では議員はおにぎりばかり食べてるのはあれ、あの時だけなのでしょうか??)

トルコ人と日本は同じモンゴロイドだし・・・という考えは、あの、民族が混ざりきった容姿をみるにつけ、もう通らないかな(笑)。いろんな民族が行き交う中で培われた叡智もいろいろあるのでしょう。

旅では、所詮その上澄みをすくうに留まるけれど、いろんな人の話を聞いて、私なりの感触をつかみたいものです。

写真:たっぷりとヨーグルトが添えられたケバブ

やっぱり肉食なのかしら・・・。

たべもの賛歌その5 アプリコット


ピスタチオ同様、見た目で判断できないおいしさ、アプリコット。

ほんのり赤身のある方が美味しそうなのですが、実は、真ん中の黄色いのが断然甘い。
その名も「シェケルパーレ」(品種名)。
「シェケル」=「砂糖」の意。

先述のカメも喜んで食べたシェケルターレ。
トルコ語で、唯一かろうじて口に出せるようになった(??)「ティシェケレデリ(=ありがとう)。正しくは「テシェックュル・エデリム」らしいですが(現地では終始コレで通してしまった)、これも甘い響きなのかなあ。

<写真は、コンヤ市街にて>

2008年7月26日土曜日

たべもの賛歌その4 チェリー




これを見て、思わず「アメリカンチェリーだ!」と思ってしまった。
これは「ターキッシュチェリー=ヴィシュネ」デス。
ナッツ同様、日本ではほとんど産地別食べ比べのできない食べ物のひとつ。
トルコのチェリーの美味しいこと!!
アメリカンチェリーにはない山形産のさくらんぼの要素、清楚な酸味がある。
トルコでは、日本の梅ジュースみたく、たっぷりのチェリーを砂糖漬けにして作るというおいしいハウスドリンクにしたりするようだ。
種をプイプイ出しながらそのまま頂くもよし。ジュースにするもよし。




2008年7月25日金曜日

食もの賛歌その3 ヘーゼルナッツ





ヘーゼルナッツ。日本に入ってくる95%がトルコ産という。

どんぐりみたいな実だとは思っていたけれど「帽子」がなくて、こんな風に「サヤ」(?)に入っているなんて知らなかったー(!)。

ピスタチオと並んで、トルコ自慢のナッツ。
ちなみにピスタチオ、見た目はちょっと小振りで貧相に見えるかも知れないけれど、ガ-ジアンテプ産が格別においしい!

ナッツがこれだけ豊富な国なのに、ナッツとベストマリアージュのチョコレートは、イマイチいまニなのが不思議(笑)。

賛否両論のEU加盟。私としては、EUに入らずにトルコはトルコらしくトルコのままでいてほしいなぁ~と思うのだけれど、EUに加盟したら、トルコのナッツチョコがもう少し美味しくなるでしょうな。




2008年7月24日木曜日

食物讃歌その2 野菜市場



セリミエ地区の水曜野菜市では、イキイキ働く人々が、誇らしげに自分のとこの野菜を手にとって「買っていきな!」・・・と言ってるのかとおもったら「写真に撮ってくれ!」と言ってたようです(笑)。




2008年7月23日水曜日

食べもの讃歌その1 干し野菜





スパイス屋さんには、こんな乾物が沢山ぶら下がっていて、何処までが食用やら・・・。
茄子、パプリカ、ヘチマ、海綿等々。

写真左端は、オクラだ。
紐に通して干してある僅か1cm程度のまだ未熟なオクラは、コンヤでも食したバーミャチョルバス(オクラのスープ)の具となる。小粒なものの方が高価だ。

サイズ違いを2種類買って帰ったけれど、大きめの方は、なにやら産毛(?)がもしゃもしゃして硬かった。スープの具には、ツルッとのど越しのスムースな代物でなくては・・・価格の違いの訳を実感した次第。




2008年7月22日火曜日

動物讃歌その5 カメ




ユルギュップで宿泊したホテルのお庭にいたカメ。

乾いた大地にオアシスのようなホテルの庭。この風景に溶け込んでいながらも、おっとりほっくり、ほのぼの空気を醸し出しているこのカメくん。

「生きてるかーい?」と、甲羅をノックし、草を差し出すと、ムックリと起き上がって手足頭を少し山し、2,3歩あるいて草をムシャムシャ・・・。杏の実を目の前にすると、首がにょにょ~~んと伸びた。食欲も旺盛だ。

私達もおいしい朝ごパン。

静かな風に当たって、石の陰はひんやりと涼しい。




2008年7月21日月曜日

動物讃歌その4 犬



ネコに比べて、ちょっと後ろ姿に哀愁ただようのは野良犬たち。

細々と・・・細々と、生きている感じだ。

みんな痩せてるねぇ~)))。

これだけネコが多いのに、ネコを追いかけている犬など見かけることはなかった。

二十世紀の始めには人口以上に増えた野犬を皇帝の命令で一網打尽に捕獲し、マルマラ海沖合の孤島に捨てて餓死させたという悲しい歴史秘話が・・・。

昔は犬もネコと対等に張り合っていたのかな?




2008年7月20日日曜日

動物讃歌その3 あひる




コンヤからアレムダル村に向かう途中で見かけたあひるさん。

きゅっと締まって小振りな体つき。動きもなかなか機敏だゾ。

追いかけていたら、あひる達の機嫌を損ねたのか、ちょっと威嚇モード・・・。

「ちょっとあんたぁ~、調子に乗るんじゃないわよ!」
・・な〜んて、吹き出し付けたくなります。




2008年7月19日土曜日

動物讃歌その2 ハト



エジプシャンマーケットには、ペットフード三昧の一角もあったが、豆屋となると、もうペットフードなんだか人間様のフードなんだか訳が分からない光景。

売り場もこんな風にオープンなものだから、ハトもまた、こんな風にふらっとやってきて、腹ごしらえしたりする。

店主も、追っ払いもせず容認しています。(ほのぼの・・)

ハトさんハトさん、どうせなら、おトイレだけは、どうか他所でお願いします。




2008年7月18日金曜日

動物讃歌その1 ネコ




さて、この写真の中に、ネコは何匹いるでしょう?

ネコはコーランの中でも保護されているらしい。
そのせいかは分からないけど、とにかくみんな、野良猫を可愛がり、ネコを飼っていなくても、キャットフードを用意している家が多いらしく、付近をうろつくネコには時折エサをやったりしているようだ。

港町にネコは付きもの。港町の風景=ネコのいる風景みたく思っていた。そりゃぁ、お魚には事欠かないし。

が!!

トルコのネコは、お魚を食べないそうだ(!)。

イスタンブールには魚料理屋もけっこうあるとはいえ、魚料理は本来のトルコ民族にはない食事なのだ。イスタンブールの魚料理は日本のそれの2倍以上が相場のようだし、ガラタ橋辺りの鯖サンドのようなファストフードを除けば、魚を食べているのは殆ど旅行客のようにお見受けした。

魚食は、ギリシャやローマ人からの名残の食なのかもしれない。

ネコは、犬とちがって「人に付かず家につく」などというが、さすがに餌付けしてくれるトルコ人の残飯は、お肉が多かったのか、お魚は食べ付けてこなかったのか・・・。

肉食のネコ・・・。

勝手気ままに堂々と俳諧しているネコがだんだんヒョウに見えてくる。

食うに困らないネコは、警戒心もなく、ひときわ自由で気ままで、気高く優雅である。

子供の頃、野良ネコを追い回して反撃をくらったことのある私は、あまりネコ好きではない。

特に、野良のあのコソコソッと逃げ足の速い様、チラッと振り返り、こそ泥っぽいところ、あれがネコらしさなら、ネコはやっぱりすきじゃないなあ)))と思うのだけれど、そんなネコはイスタンブールには居ないのである。

思えば、こそ泥ネコは、追っ払う人間が生んだのかな・・・・。

生き物に対する寛大さは、人にも、その社会の生き易さにも通じるものがあると感じる今日この頃。




2008年7月17日木曜日

キリム

ユルギュップにあるホテルのラウンジ

トルコの空間が、何故かどこか懐かしい・・・と感じるのは、このキリムたちのせいかしら。

ユルギュップで宿泊したホテルのオーナーは、家業が絨毯やだったそうで、ふんだんにキリムを使った楽しい空間が彩りを添えていました。

石とキリム、木とキリム・・・畳とキリム・・・。キリムは、自然素材とよくマッチする。言わずもがなキリムだって自然素材だから。用の東西を問わず、自然素材同士は融合するのですね。)))
このキリムや絨毯自身も、そうやっていろんな文化や技術を吸収し、築き上げられた工芸に違いない。

イスタンブール・スルタンアフメット地区にあるトルコ・イスラーム美術博物館には、遊牧生活をしていた頃からの生活舞台を再現した一角がありました。

2時間ほどで組み立てる住居「ウイ」に貼り付けるフェルトやキリム。勿論床にも敷き詰める。

それらをまたクルクルとたたんでラクダやロバに縛り付けて移動する。そんな遊牧民の暮らしの中で織り上げられていくキリムの模様は、メモやノートをみながら作るわけではない(!)。改めて、人間の脳の可能性を見せつけられた気がしました。

先述の「手芸上手はいい嫁の条件」ということを、今時の先進国の物差しで測りたくはない。女性のセンスと技量が醸し出す生活空間の彩りを大切にしているのですね。)))それはより良く生きる力そのもの。


2008年7月16日水曜日

パン





ユルギュップでは、ナンやピタパンのような「遊牧民のパン」を味わいました。
イスタンブールから東へ向かうと、パンが、バケットタイプからこのようなパンに変化していくのも興味深いところです。


それにしても、ただ捏ねて焼いただけのようなこのパンが、どうしてこんなに美味しいのか・・・!
コレを頂く風土に居ながら食べているせいもきっとあるけれど、やっぱり小麦が美味しいのでしょうねえ~。

パンには、モロッコ日記でも触れたナイジェラ(ニジェール/別名ブラッククミン)といわれるスパイスとゴマがまぶしてあります。トルコ語では「チョレキオド」と呼ぶらしい。

スパイスといっても、スパイシーな訳ではない優しいスパイスは、食感と後口にちょっとほのかな香りを添えています。後日、イスタンブールで訪れた薬香屋のビラルさんのお話によると、「チョレキオド」は、医学的には万能薬。これはコーランにも明記されたとおりですが、特に、胃酸過多、ガスが溜まるといった症状に、粉にして蜂蜜やヨーグルトに混ぜて空腹時に服用するのだそう。副作用もないといいます。また、子供に食べさせると頭が良くなるとか。
子供でなくても、多少の効果が有りはせぬかと、パンからポロポロ剥がれ落ちたスパイスの粒を惜しそうに拾っては口に運ぶワタクシでありました。

2008年7月15日火曜日

地下都市





地下都市の内部


「都市」というだけあって、人々の暮らしの営みがあったことが垣間見られます。

2008年7月14日月曜日

カッパドキア





人間て、たくまし~~~。

思わずステップの広大な大地にため息がでます。こんなところをずーっと旅して来た人、ここに定住して暮らした古の人々に思いを馳せると、生きることへの執念すら感じます。

トルコのアナトリア高原の中央部、カッパドキア。柔らかい火山岩の浸食・風化でできた奇妙奇天烈な岩の林と大地が広がっています。

ヒッタイト時代から、東西交易ルートの要であり諸民族の興亡の地。
この地を更に特別なものにしているのは、この岩岩を彫ってできた集落や教会。
カイマルクの地下都市は、アリの巣のように、地下へ地下へと張り巡らされた洞窟住居があります。
紀元前からヒッタイト人が暮らしていたそうですが、その後アナトリアは西半分が西ローマ帝国の支配下に置かれ、キリスト教徒の大弾圧が行われた時期(3世紀後半~4世紀初頭)には、多くのキリスト教徒達が迫害をのがれてこの地に移り住み、隠れ住んだのだそうです。
4世紀末には、ローマ帝国がキリスト教を国教としたため、"隠れキリシタン" のこの集落は、転じてキリスト教徒達の格好の修行の地となったのでした。その後もアラブやペルシャなど、勢力の興亡により、再び地下に隠れ住む生活になったりを繰り返し・・・。

紀元前から20世紀までの長~い間に掘り進められた洞窟は、最も深いところでは、地下8階、100m以上もあるそうな。

島根の石見銀山では、発掘する労働者は、蝋燭1本を頼りに長時間洞窟内に留まることが精神的に大変な恐怖感、ストレスであったため、香木を持って入り、香りで癒しながら作業を進めたといいますが、この洞窟は、銀山とは比較にならないほど深く、込みいっています。
さらに、いつ敵の襲撃にあるかわからない恐怖感と隣り合わせで暮らしていたかと思うと、その精神状態たるや、はかりしれません。

いやはや・・・カッパドキア、圧巻!

2008年7月12日土曜日

トルコ ギョズレメ




ギョズレメを焼いてくれているおばさんも、頭に「オヤ」付きの綿のスカーフをしています。ガーゼのような、柔らかな素材のスカーフは、くくらなくても滑って落ちてこない。

ギョズレメは、トルコの南東部でよく作られていた、インドのチャパティにも通じる素朴な薄焼きパン。
「サチ」という中華鍋をひっくり返したような鉄板の上で焼かれる。サイズも様々のようだが、直径40cmぐらいの大判が普通のようです。
チーズやヨーグルト、ジャガイモなどを挟んで食べます。
ご当地ならではのこのパン。小麦粉が美味しくなければ出来ないおいしさ・・。

コンヤ ~ ユルギュップ ~ カッパドキア。東へと陸路で、昔のシルクロードをバスで往く。

オルタヒサル



「ヒサル」とは、城塞という意味だそう。

ここは今も人が生活している。この下にも地下都市が広がっているはず・・・・。

2008年7月11日金曜日

トルココーヒー





コンヤのメラム地区は、コンヤ市街が一望できる。

運転手をつとめて下さった方のお宅が、まさにそのロケーションで、お宅のテラスからの素晴らしい景色とコーヒー、自家製のお菓子「ギュルラッチ」を振る舞って下さいました。

ギュルラッチは、デンプン粉と牛乳でできたぷるぷるの薄皮をミルクとローズウォーターのシロップに浸したお菓子。あっさりとして、少しアジアっぽくもあり、欧米風でもあり・・・実に美味しい!

フランスのカフェ文化も、トルコが先だったというから、トルココーヒーは、その歴史を見ても大変興味深い。(トルコ語ではカフヴェといったらしい)

紅海を隔てたエチオピアからイエメンに伝わったコーヒーは、アラブ人を介してアラビア半島に広まり、16世紀半ばにはオスマントルコにも伝わっている。

コーヒーのカフェインにも刺激されてか、市中のコーヒー店では、御政道批判などが繰り広げられ、カフェ禁止令まで出されたという。

トルココーヒーは、エスプレッソ用のように細かく挽いた豆(昔は石臼で挽いていたからかな?)を、湧かした湯に加え、コーヒー豆の粉ごと混ぜ合わせてカップに注ぐ。

コーヒー豆がカップの中で沈殿するのを待って上澄みを飲んでいくのだが、最後に残った粉を移して、流れる方向で占うコーヒー占いというものもあるらしい。

入れ方を聞いてみると、日本でトルココーヒーを入れるなら、サイフォン式でいいのかな?という気がするが、どうかな? もちろんコーヒー占いは出来ないが、最後の1滴まで美味しくいただけるかも。

2008年7月10日木曜日

手仕事




花嫁さんの、嫁入り道具の多くは、手仕事のレース編みやニット等。

これらが上手なことは「よいお嫁さんの条件」なのだそうな。

イスラム教の女性が神を覆う為のスカーフの縁に付けられている装飾は「オヤ」という。

このお嫁さんは随分器用な方のようだゾ・・・。

引き出し4つ分がすべてこんな品々でいっぱいだ(!)。

中には、贈られたものもあるそうだが、二つとして同じモノがなく素晴らしい。

後日、アンティークものの「オヤ」に出会い、すっかり魅せられてしまった・・・。

キリムや絨毯といい、このオヤといい、刺繍の数々といい、これらの手仕事の技術の高さに、遊牧民族のワイルドなイメージが一新されました。

2008年7月9日水曜日

アレムダル村の結婚式



炊き出しだぁーっ!


調理場(?)の様子を目にして思わずそう思いましたが、これ、結婚式の料理を作っているところ。

トプカプ宮殿の厨房にもあったような大きな鍋に柄の長いヘラ・・・・素材こそ違えど、同じ塩梅。

この日の料理は・・・

・ヨールトチョルバス(ヨーグルトのスープ)
・バーミャチョルバス(乾燥オクラのスープ)
・エトゥリピラウ(粒パスタ入りのピラフ)
・ゼルデ(甘い白粥)
・イルミックヘルワ(セモリナ粉のヘルワ)
・あま~いチェリージュース(これは市販のものだった)

繊細な料理とは言い難いけれど、この土地の郷土料理を大皿に盛って、スープやお粥まで、みんながそれぞれのスプーンでつっつきながら食べる。ごちそうを食べることよりも、大勢で一緒にたべることを大事にしているのですね。

それにしても、屋外で、テントを張っての調理と食事。
まるで、町内会かなんかの運動会でもあるのかと思わせるような気さくな空気です。
村中の人が、ふらふらっと、いつもの服装(?)のままでやってくる。
結婚式の段取りは、こんな感じらしい。

・午前8-9時頃からお昼近くまで、男女別々に別れて食事と宴。
(子供は男側と女側を自由に行き来してははしゃいでいました)
嫁入り道具などを部屋に置いてあり、お披露目。

・午後、車の行列を従えて、花嫁を迎えに行く。

最近は、民族衣装ではなく純白のドレスにヴェールといったスタイルが多くなってきたそうだが、本来は、三枚はぎのスカートに、真っ赤な布を被るスタイルなのだとか。

・役場の結婚課の人と男女各々の証人の前の前で、結婚を誓う。
(これで、お役所的手続きは終わり)

・お金の入った壺が用意され、花嫁さん、壺を割り、婿さま、そのお金を撒く。(子供が拾う)
昔は豊穣と子孫繁栄を祈って、麦の粒を撒いたとか。

断続的にピストルやライフルを空へ向けて撃つ音が響く。
(中国の爆竹みたいなものでしょうが、これで度々死傷者がでるらしいです〜。)

トルコビールの出番は・・・ない。(ちょっと残念)
(コンヤでは、開拓した農地で、てんさいやホップも作られている。)

11時前に到着した私達は、女性のエリアで食事をご馳走になり、お嫁入り道具や贈り物(ニットやレース編みの数々など、手作りのモノがほとんど)を拝見し、男性エリアものぞき、しばしダンスや歓談。花嫁さんの登場はまだまだ先なので、あえなくこの場を後にしました。

2008年7月8日火曜日

トルコの食べ物、トルコの料理


おいしい料理を、いつものように美味しく作ることは、やはりいつも作っていなくては出来ないことだなあと思う。

コンヤでお世話になったオズカン家の奥様は、これまで何度と作ってこられたんだろうなぁと思わせる手際の良さで、コンヤの郷土料理を作ってくださった。

<本日の料理>

・ヨーグルトチョルバス: ヨーグルトを加えた酸っぱくて白いスープ

・バーミャチョルバス: 干したオクラを加えたトマトベースのスープ

・ヤプラックサルマス: 葡萄の葉でブルグル(挽き割り麦)と挽肉のピラフを包んだ

前菜料理

・ドマテスドルマス、ビベルドルマス: トマト、ピーマンの詰め物。中身はお米のピラフ

・エトゥリピラフ: 「肉の入ったピラフ」の意。松の実と山葡萄を加えたピラフに

クシュバス・カアブルマス(炒め煮にしたお肉)をのせたもの。

・カルヌヤルク:(=「お腹を切り裂く」の意)茄子を素揚げにして炒めた挽肉、玉葱、

シシトウ、トマト、ニンニクなどを詰めて焼いた料理。

・カルブラ・バストゥ:胡桃入りのクッキーをシロップ漬けにしたお菓子

・バクラワ:ナッツ入りミルフィーユのシロップ漬け

・アイラン:甘くないヨーグルトのドリンク 

・季節のフルーツ

日本のお節のように、作り置きできるものが多い。

このお料理も、2,3日前から準備して下さったもので、当日は、スープとピラフ、アイラン、それから、私のリクエストでもあるバクラワを手がけられた。

お総菜の数々・・・いずれも、市場で見かける豊富なスパイスをあまり感じさせないマイルドな味付けだ。

甘いものは・・・う~ん、甘い!

この翌日におじゃましたアレムダル村の結婚式で、これと同じ料理にお目に掛かることになる。

ハレの日のお料理だったのね。




2008年7月7日月曜日

コンヤ:メヴラーナ


コンヤ:セルジューク朝(11世紀から12世紀にかけて現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心に存在したイスラム王朝)の首都であり、イスラーム神秘主義の一派、メヴレヴィー教団の発祥地。(ちなみに、キリスト聖者の聖パウロも、コンヤへ立ち寄っているらしい。アナトリアの重要な通過点だった。)
イスラーム諸国からの巡礼者も訪れるというトルコを代表する聖地でもある。


人口76万人。
コンヤといえば、メヴラーナ。
「神秘主義」というと、なんだか怪しげに聞こえるかもしれませんが、メヴラーナ・ジェラレッディン・ルミ(1207~1273)の説いた教え----神と人間の心が一つとなることを目標に慈善と善良を擁護し心の愛を自覚することを追求した哲学----を守らんとする教団で、イスラム教という枠を越えた限りなく寛容で肯定的な理論を持っているのだそうです。

崇高な平和の精神が託されているようで、時代は異なるけれど、イスラム版、キリスト教から派生したフレンド教会アーミッシュの信仰のような感じなのでしょうか))。

ケマル・アタテュルクの政教分離政策で、1925年、教団は、宗教としては解散という形をとっており、メヴラーナはユネスコの無形文化遺産とされているそうです。

メヴラーナの使徒達(スーフィー/Sufi)が、音楽とダンスによってメブラーナを音楽とダンスで表現したものが、アノくるくる廻る旋舞 "セマ(Sema)" なのです。

回転=循環で無限をあらわし、精神を無にして回り続けることにより神の心に届かんとする、座禅のようなものみたい。

軸足で中に視線を浮かせたままでクルクルスルスルひたすら回り続ける。

手は、まるで遠心力に任せるがままにしているようにも見えますが、右手を上(空)に、左手を下(地球)に向け、神から受け取った精神を心身を通して地球に伝えるようになっているのだそう。

7月5日、丁度土曜日にコンヤ入りしたお陰で、本家本元のセマを見ることが出来ました。

(丁度、例のKOPプロジェクトがらみで、コンヤを副首相が訪れており、セマを観賞にきていたお陰で、ベスト&フルメンバーでの演奏&舞いをみることができました!)

お経にも通じる音楽と歌声、そしてセマ・・・目が回らないのかな??・・・と、見入る私も、幻想的な世界に引き込まれそうになりました。

2008年7月6日日曜日

コンヤへ




7月5日。
イスタンブールから、空路にてアナトリア地方へ向かう。
晴天の午前にみる車窓・・・いや機窓(?)からの景色は、壮観!

延々と広がる耕作地と大自然を眺めていると、自給率100%以上の国の底力がひしひしと伝わってきます。

写真は、コンヤの郊外、チャタルホユック*に向かう道中での車窓。

一面に広がるのは、灌漑農法でのパンジャル(砂糖大根=てんさい)の畑。(*コンヤには、世界5本指にはいる大きな精糖工場がある。)
コンヤは、小麦、大麦、てんさい、その他果物等々を豊富に生産している農業地帯だという。
一部塩分を含んだ土壌もあるものの、現在その土壌を「塩抜き」して農地に改良するというKOP(コンヤ・オバス(高原)スラマ(灌漑)・プロジェクト)が、国をあげてすすめられているのだそうだ。

水源は、ベイシェヒール湖。乾いた土地のようでも、水だって豊富にある。

「食ありき」。
トルコの首相も、オスマンのスルタンに負けていないかな。

食を大切にしている様は、トルコの庶民生活に欠かせないチャイが、地産地消(ほとんど国産であり、ほとんどを国内で消費しているらしい)であることからも、一端がうかがえよう。

*チャタル・ホユック
コンヤの中心地から南東に40kmぐらいのところ。世界最古(BC7000~9000年)の新石器時代の集落後が1958年に見つかっている。時代を異にした十数層ものヒッタイト居住跡があり、発掘調査は現在も続けられている。ホユックとは、「遺跡・塚」の意。

トルコ:トプカプ宮殿(2)July 4~5th より



大きな鉄鍋。土鍋もある。

土鍋は、モロッコのタジンにも似てますね・・。

展示品、及び閲覧可能な範囲は、当時のほんの一部らしいのですが「炊き出し」サイズのこのお鍋達を使って千人あまりの料理人が働いていたそうです。

壁に掛かっている当時の食事模様を描いた絵には、大皿料理が続々と運ばれ並んでいる様子が・・・。

料理を振る舞うことは、その人の徳が上がるということ。
そういう考え方が、イスラムの教えにはあるのだそうです。

イスラム文化圏に限らず、食べ物を豊富に供給できる財力、民を養う力があうことが、世界のどこの歴史を鑑みてもずーっと指導者たる人物の絶対条件であったはずなのだけれど、昨今は、いかがなものでしょう???
戦争をして、民を飢えさせているようでは、風上にもおけませんな。


トルコ料理が何故世界三大料理のひとつと言われるのか。

その疑問をあちこちのトルコ人に投げかけてみました。

この後訪れたコンヤ県で博物館の総館長であり考古学者でもあるヌレッテン氏のコメントは、こうだ。

トルコという国は、最盛期には世界の1/3がその領土にあった。そんな中で、料理人もいろんな地方や民族からの貢ぎ物として連れてこられ、多民族の食文化を取り入れてきたと同時に、広めてきた。強大な国になっていく過程において、食は欠かせないものだったのだ。

私:フランス革命のときのように、オスマン朝の崩壊で、宮廷料理人が分散し、庶民にも宮廷料理がひろまった・・・なんてことはないのでしょうか?

ヌレッテン氏:オスマン朝の厨房では、料理人は徹底した分業であったこと、また、スルタンは、要の料理人も連れて亡命したこと、さらに、オスマン朝時代の料理記録はオスマン語=アラビア語で書かれていた為、料理長クラスの人間以外は読める職人もいなかったことなどを上げ、ゆるやかに否定された。

多民族に受け入れられた食を構築したことも、かつて強国となった所以かもしれません。

氏のお話を伺っているうちに、料理人と食事を大切にしたオスマン朝が浮かび上がってきたゾ。

オスマン軍の軍隊には、鍋を持った炊き出し隊がいたことなどを聞き、このお鍋を見入っては、トルコの胃袋パワーを想像するのでありました。

2008年7月5日土曜日

トルコ:トプカプ宮殿



トプカプ宮殿。
あまりに有名なこの光景。

一番の人気はハーレムだそうですが、私の期待は、宮殿内にある厨房。

日本の武家屋敷・・・柳宗悦邸(日本民芸館含む)等々、国内外を問わず、歴史建築が博物館になっているとき、厨房や風呂場、トイレは、殆どが事務所になっていたり立ち入り禁止になっていることに、多いに不満をもっている私としては、ここの厨房を見るのを楽しみにしています。

さてさて・・・???

2008年7月4日金曜日

トルコ入り




最初の1枚はコレ。

トルコに入るや否や「今日は祝日かい?」と、思うほど、そこかしこに掲げられている国旗が目に付いた。トルコ国民の誇りの象徴。

*親日トルコ

20世紀初頭のこと
「日本人とトルコ人は、そもそもの昔、中央アジアで祖先を同じくして育った民族だ。その後、日本人の祖先は東に出向いて日本という国をつくり、我々トルコ人の祖先は西に出向いてトルコという国を造った。その折、日本人の祖先とトルコ人の祖先は、互いに、太陽と月と星を分け合って別れた。日本人は太陽を、トルコ人は月と星をもっていった。そしてそれは今、両国の国旗となっている。」

トルコでは、日本並びに日本人への親しみを込めて、こんな話が本当のことのように言い伝えられているといいます。