Bali バドゥン市場にて(2009) |
今日は、真っ赤っかなキムチに必須の、唐辛子についてです。
唐辛子は、15世紀後半までは、中南米にしか生息していかった植物。
コロンブスが、スパニョーラ島(今のキューバ)で唐辛子を発見したのが1493年。
その後、スペイン人とポルトガル人により持ち帰られた唐辛子は、瞬く間に世界中に広がり、100年足らずで、インド、日本、中国、韓国に伝わり、最終的には料理を激変させていくことになるのです。
日本へは、1542年にポルトガル宣教師によって、苗ごと持ち込まれました。
朝鮮半島には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年)で、日本が医療用(凍傷予防対策)または「武器」(目潰し用)として持ち込まれたのがはじまりとする説が有力となっています。
こうして伝わった唐辛子は、朝鮮半島でもやはり最初は毒薬扱い。李朝中期に記された百科全書『芝峰類説』(李サイコウ編纂/1613年)の食物部の章には、唐辛子を指す「南蛮椒」「倭芥子」が猛毒として記されているそうです。また、それより少し後に書かれた料理書『飲食知味方』(張桂香・著)に、まだ唐辛子は出てこきていないのだといいますから、まだ食物扱いではないということのようです。
料理に登場するのは、それから更に100年後の18世紀に入ってからで、農書『増補山林経済』にキムチやコチュジャンが紹介されているらしい。それでもまだ、唐辛子の使用料はほんの薬味程度で、今日のような「真っ赤っか」になるのは20世紀に入ってからのようです。
これは、辛くない品種が普及したからかも知れないな。))
唐辛子のことをハングルでは「고추/コチュ」といいます。漢字があったなら、どんな表記になっていたのでしょう? ちなみに、日本の「“唐” 辛子」、「唐」は、歴史的に「外来のもの」というニュアンスで使われていおり、中国から伝わったという意味ではありません。
さて、中国においてはどうか?
古から食医がいて食薬や料理書が折々に記されている中国ですが、食薬書『本草綱目』(明代半ば/1578年)にもまだ唐辛子は取り上げられておらず、文献に出てくるのは、明代末(17世紀半ば)。料理に登場するのは、次の王朝 清代初の園芸書『花鏡』(陳淏子/1688年刊)で、唐辛子のことは「番椒」と書かれているのだそうです。「番」は、日本でいえば南蛮の「蛮」のように外国から入ってきたものを指す言葉(ex:番紅花=サフランのこと)。薬用、または観賞用であったことがうかがえます。
清代全盛期 乾隆帝の子にあたる7代皇帝 嘉慶帝(1760-1820)の時になると、ようやく四川で唐辛子の栽培が始まり、長江流域(四川料理、湖南料理、湖北料理など)の料理に影響を及ぼすようになっていったようです。
中国には、シルクロードという西域との交易ルートあるし、チベットと四川、雲南とは、いわゆる茶馬古道と呼ばれるルートがあり繋がっています。しかしながら、いち早くマカオに到達していたポルトガル人経由で伝わったと考える方が妥当に思えます。
いずれにしても、中国、韓国、日本・・・唐辛子の伝わった時期に大差はなく、それぞれに活用の幅を広げていったのではないかという印象です。
エスニック料理というカテゴリーの料理には唐辛子が必須といってもいいほど定着しています。それは皮肉にも、列強による植民地支配の歴史ともつながっていると言えるでしょう。
唐辛子は、19 - 20世紀になって「スパイス」として料理の中で花開し、食文化に大きな影響を与えて植物なのでした。こうやって見ると、伝統料理の歴史も、案外数 二、三百年程度のものなのですよね。)))
どんな環境にあっても、したたかに、軽やかに、各々のとらえ方でそれぞれの食文化にとりいれていく人々と唐辛子の柔軟性に、深い感慨を覚えます。
参考文献:『世界地図から食の歴史を読む方法』辻原康夫
『世界食物百科』マグロンヌ・トゥーサン=サマ
レファレンス共同データベース
『香辛料Ⅳ』山崎峰三郎