2019年5月26日日曜日

ポルトガルのお菓子 (追記)

雑学の域を出ませんが、4回に渡り南蛮菓子について書いてきました。

「大航海時代」とか「新航路発見」("発見" された先住民にしてみれば甚だ迷惑な話ではあるけれども)を歴史の一頁としてみれば、それはそれは壮大なロマンにも見えるのですが、この時代のヨーロッパ人たちは、途方も無くて、大胆で、残忍で、運まかせ。
野心なのか本能なのか、博打なのか??「生きてるだけで、丸儲け」だったのでしょうか??
この時代については、もう少し足踏みしていろいろ調べたいなあと思っています。

さて、2で取り上げた福岡の銘菓「鶏卵素麺」についてのエピソードをひとつ。
ポルトガル伝来といわれるこの鶏卵素麺とそっくりのお菓子が、タイ王国にもあるのです(!)。「ファイトーン」といいます。

こちらはポルトガル経由ではなく、なんとキリシタン迫害を逃れ海外に渡った日系人によって伝えられもの(!)。

鶏卵素麺でググると、こんなサイトがありますよ。
http://www.街かどタイ料理.com/article/401072846.html
※ウィキは正確とは限らないことを前提にご覧下さい。

マリア・ギオマール・デ・ピーニャ。
ポルトガルの植民地だったインドのゴアから来たベンガル人と結婚したキリシタン大名の末裔といわれる日本人とポルトガル人との間に生まれた方なんだそう!?
アユタヤ朝のタイで、これまた複雑なルーツ* のヨーロッパ人と結婚しています。





まさに「数奇な運命」の図です。

*ほそく:ヴェネチア共和国支配かのギリシャの島に生まれるも、10代半ばで島を出てイギリス・東インド会社に就職しタイに渡る。その後貿易会社で働き、自らも船を持ち貿易を試みるも、インドで難破。その折に、アユタヤ王朝の外交官と出会い、再びタイへ。

彼女の夫は、そのアドベンチャーな経験を積む中で複数の語学も身に付け、タイの王様に気に入られちゃって、外交のお手伝いをするようになるのだけれど、イギリス、フランス(当時ルイ14世の治世です)に便宜を図りすぎて他の高官たちから反感を買い、王様が病気で倒れたのを機に、次王と高官らに殺害されてしまう(シャム革命)。
その妻であったマリアも捕まり投獄されてしまいますが、彼女には、お菓子作りの腕があったため、宮廷のお菓子職人として登用されることになった!!
鶏卵素麺に繋ぎとめられた命だったかもしれない?? 
ファイトーンと共に、彼女のことも語り継がれたのですね。)))

迫害を逃れたり追放されたりした日本のキリシタンがアジア各地で足跡を残している話は、他にもこんなものがあります。

江戸時代初期、キリスト教禁止政策によりバタヴィア(当時オランダ領だったジャカルタ)に追放された「お春」。
お春(1625~1697年?) は、ポルトガル商戦の航海士であるイタリア人の父と日本人の母を持つ混血少女で、追放当時は、まだ14歳だったとか。
彼女が望郷の思いを綴り日本に送った「じゃがたら文」は名文で、憐憫の情を誘い、昭和に入って「長崎物語」という歌にもなっているようです。
故郷を追われた悲劇の少女として語り継がれていますが、現地で、オランダ東インド会社で活躍したオランダ人と結婚して、奴隷を所有するほどの結構いい暮らしをしていたようです。
・・・というのも、当時、東洋への航海は、海賊や嵐や病気のリスクを伴い、命も駆ける大博打。そんな航海に便乗する女性など殆ど居なかったので、航海士が現地の女性と結ばれるというのはとても多かった(というか、ほとんどそうだった)のでした。また、当時のインドネシアには、イスラム勢力も浸透していましたから、異教徒との結婚は難しく、“文明国日本” の女性は大変魅力的だったそう。
(*参照:『ジャワ探究ー南の国の歴史と文化』/ 井口正俊・著)

ポルトガル全盛の後、オランダ、続いてイギリスが、各植民地を徐々に上書きし、やがて七つの海を征するーーー。
そんなうねりの中で、ポルトガルのお菓子が東へ南へ伝わり、広がっていき、その地の郷土がしとして根付いたーーー。


一番乗りでアジアを席巻したポルトガルは、最終的には、殆ど全ての植民地を奪われることになるのだけれど、お菓子という足跡を残しました。そしてそれは、ポルトガル人に寄るところに留まらず、日本経由でもあったりしたことには、深い感慨をおぼえます。

・・・で、イギリスは、残すほどの甘味を持ち合わせていなかったけれど、後々独自のティー文化を持ち込む。そのお茶請けは、バター無しでも作れるポルトガルのお菓子だったかも・・・しれないですよね〜〜〜))))???

ああ・・・とんでもない脱線をしてしまった。いや、本来、食を探訪するということは、こういうことなのだ。 

深いため息と共に、今日は日本の渋茶を啜ってます。


2019年5月22日水曜日

ポルトガルのお菓子(おまけ)〜鹿児島の郷土菓子〜

先日、久しぶりに、鹿児島へ行ってきました。
鹿児島は、母の故郷。幼少期、祖父母や叔父、叔母、従姉妹達と沢山遊んだ地です。
庭を駆け、竹とんぼを飛ばし、池でカエルを釣り(南瓜の花で釣れるのです!)、山道を探検して歩いた思い出の地。)))

祖父母はもう他界して、その景色も町の様子も随分変わってしまいましたが、懐かしい味や匂いは、記憶の深いところに刻まれているようです。
だから、観光よりもつい道の駅めぐりをしたり、ドライブで過ごして終わってしまうことが常なのですが、今回は、鹿児島市内を観光目線で歩いてみました。

市内にはあちこちに、鹿児島が産んだ逸材たちの銅像が。
大河ドラマ『西郷どん』に出てくる人材は、殆ど加治屋町(現在は鹿児島中央駅からほど近いエリア)の出身。
駅前から桜島行きのフェリー乗り場のある港まで(2−3キロ)を歩き、またそこから仙巌園(島津のお殿様の別宅で、研究所として使っていたところ)まで(2−3キロ)も体感できました。

 1543年、種子島に鉄砲伝来。
 1549年、キリスト教伝来。

そんな風に小・中学校の日本史の教科書に出てきたけれど、その真意を悟るのは、随分後のことだった気がします。そして、沖縄(琉球)や、中国(明)を同じ視野に加えることが出来るようになった今、さらに深い感慨をおぼえます。

鹿児島市の中心地、斉彬公が祀られている照國神社から数百メートルのところには、フランシスコ・ザビエルの記念碑が、その向いには、随分モダンなイエズス会教会がありました。

ザビエル碑:アーチの内側にはイエズス会のマークが。

改めて、鹿児島とは、そういうお土地柄なのですね。)))

そんなことをつらつら思いながら、鹿児島のお菓子を振り返ってみると・・・。

お餅のお菓子も色んな種類があるのですが、餅生地とあんこを一緒に練り混ぜた中国的な製法のものが目に付きます。軽羹で有名な明石屋の商品「春駒」という餅菓子やけせん団子もそんなタイプの餅菓子です。
また、煎り米の粉と砂糖を合わせた煎粉餅にも、ちょっと共通点を感じます。
高麗餅は、米粉と小豆粉を合わせてふるいで落として蒸したお菓子。素材は素朴なのに、軽羹と同じく随分と洗練された印象のお菓子です。
それから、南蛮由来のカステラは何故か鹿児島の名物にはならなかったけれど、ボーロはあります。

こうしてみると、素朴ながらなかなか個性的な鹿児島のお菓子たちなのでした。


高麗餅(明石屋)
けせん団子
黒糖入りのボーロ






2019年5月20日月曜日

6月の料理教室

梅雨入り間近!

「天人合一:人間は自然の一部。人体にも自然環境と同じ現象が起こる」ことを、この時期実感します。
むくみ、倦怠、冷え、頭痛・・・・これらは、湿邪による症状であることが多々あります。湿が苦手な胃の不調も要注意の季節。

運動してスカーッと汗でもかくとスッキリすることもありますが、雨がちだと運動不足にもなりがち。

こんな時、ちょっとスパイスのチカラを借りましょうか。


今月のお料理は、スパイシーチャイニーズ。

この時期こそ、いわゆる「火鍋」です。
「いわゆる」と言ったのは、今どき巷で「火鍋」とよばれている辛い赤とマイルド白湯スープの2色の鍋は、正確には「おしどり鍋」と言って、「火鍋」というのは、煙突があるしゃぶしゃぶ鍋のことをいうのです。
6月は、しゃぶしゃぶではなくピリ辛の鍋スープ。

停滞しがちな気血水を、スパイスの巡らせる力で、解消しましょう♪

ピリ辛鍋に使う辣油も、作りまーす!
お楽しみに!!


   内容:
    ・茄子のスパイシー焼き
    ・スパイシースープ鍋
    ・〆の麺 or 緑豆ごはん
    ・羅漢果のデザート
    ・美味しい中国茶 & 沖縄or鹿児島のお茶請け
    *自家製辣油

   日時:2019年 6月5日(水)満席
              8日(土)
              9日(日)満席
             22日(土)残席わずか
             28日(土)※28日は一部料理内容が異なります。


※尚、NHKカルチャーは、スパイシーな腸活メニューです。


   

2019年5月16日木曜日

ポルトガルのお菓子 3 



マカオの城塞ホテル Pousada de Sao Tiago


(2)のつづき。

ポルトガルから割譲されたのは、北アフリカのタンジール(タンジェ)とインドのボンベイ(ムンバイ)。 1662年のことです。

マカオにあるポルトガル料理のレストランの名前で「アルフォンソ」というのがありましたが、丁度この頃のポルトガル王(キャサリン王妃の弟さん)の名前もアルフォンソ(2世)です。 ヨーロッパでは同じ名前の王様が何人もでてくるので、違う時代のアルフォンソかもしれませんが。

中世ヨーロッパの歴史に出てくる名前って、国を跨いでのお輿入れや王位継承などで、お国の言語に合わせての読み方が変わるので、混乱させられます。)))
英語名のマイケルがミシェルだったりミゲルだったり、カールがカルロスになったり、フィリップ  → フェリペ、ヘンリー  → アンリ、エンリコ  → ハインリヒ・・等々。
だんだん誰が誰だか解らなくなってきちゃうのです。
ちなみに、キャサリン王妃のポルトガル名は「カタリーナ」。
また、国の呼び方も国境も、当然ながら今のものとは異なります。例えばこの頃のスペインはまだスペインではなく、その中核になった国の名前「カスティーリャ王国」でした。

あれ!!!?
この名前、カステラに似てます!

実は、カスティーリャで作られたお菓子がカスティラ(カステラ)なのです!
カスティラとは、城郭のこと。当時ムーア人(北アフリカのイスラム系の人)の侵略を防ぐために沢山の城塞が作られていたので、城塞の町という意味で、そのまま地名になったのだとか。

※スペインの世界遺産グラナダのアルハンブラ宮殿:アルハンブラとは、アラビア語で「赤い城塞」という意味なのだそうです。イベリア半島は一部、8世紀頃からずーっと、ウマイヤ朝に始まり最後のナスル朝(1492年)まで、複数のイスラム王朝に支配されてきました。
アルハンブラ宮殿は、この間の異なる時代の城塞や宮殿で構成されている建築物の複合体なのでした。
イスラム勢力を撤廃し再びキリスト教徒が征服しようという運動のことをレコンキスタといい、1492年はその終焉とされています。

あれれ、ではカステラは、スペインのお菓子ってことになりますか??
ポルトガルも、スペインに併合されていたことがあったし、文化に垣根は無いと思います。きっと、イベリア半島のキリスト教徒の国々でブレイクしていたお菓子。
スペルをチェックしてみると、カステラ(Castella)、カスティーリャ(Castilla)、 城郭を指すラテン語はCastra 、英語でお城のことを、 Castle (キャスル)。

カステラが城郭ケーキだったとは!! 
私には、パン・デ・ローだった以上に驚きです。 

おっと、カステラは、「1」で取り上げたブロアカステーラのことでした。
あの小さくて丸っこいのは、城塞の石垣のイメージだったりして??

想像は膨らみますが、そろそろティータイムにしましょう。
カステラ、カステラと言ってると、カステラが食べたくなってきました。
運良く手元には頂き物のカステラが♡

日本のカステラ。あの姿形は、堂々和菓子!(・・と思う。)
だからカステラを食べるときは、煎茶を淹れがちなのですが、キャサリン・オブ・ブラガンザ(カタリーナ・ポルトガル王妃)のお話をしたので、今日は紅茶を淹れることにします♪




2019年5月13日月曜日

ポルトガルのお菓子 2

※ゴメンナサイ!写真は、楽天のネット販売・商品の写真を拝借しています。


16世紀から17世紀に掛けポルトガルから日本に伝わったお菓子たち。

カステラ(Pão-de-ló / パン・デ・ロー)、ボーロ(Bolo/ボーロ=「ケーキ」の意)、金平糖 (Confeito / コンフェイト)、カルメ焼き(Caramelo / カルメラ)、飛龍頭(フィリオース/Filhós)、鶏卵そうめん(フィオシュ・デ・オヴォシュ / Fios de Ovos)、ビスケット(ビスコット/ Biscotto)。
それから愛媛・松山の一六タルトも、実はポルトガルにルーツがあるらしい!

ポルトガルには、Torta de Azeitao(トルタ・デ・アゼイタオン)と呼ばれるロールケーキがあるのだそうで、一六タルトが一六ケーキと言わずタルト(トルタ)になっているのはその名残。ジャムが柚子餡に代わり、すっかり日本の顔になったお菓子。
    ※参考:『世界の郷土菓子』林周作 著 /『世界のお菓子』鈴木文 著

飛龍頭の元祖がお菓子だったというのも意外な驚きですが、「揚げ物」がまだ珍しかった頃伝わった揚げ菓子がいろいろに派生した!?と捉えると、どうにか合点がいきます。

それから・・・カルメ焼き(カルメラ)という名前には、「砂糖を焦がした(カラメライズド)」ものであることがわかりますが、カルメ焼きは、砂糖を煮詰めて色づき始めたところに重曹を加えて作ります。砂糖にバターやミルクも加わると1粒300メートル(森永キャラメル)のキャラメル。

お菓子のルーツが気になるけれど、調べるのは一筋縄ではいかないでしょう。知っている知識を繋いでしまうのは少々乱暴かもしれませんが、推理を交えて想像を膨らませています。

さて、砂糖のお話を少し。
12世紀に砂糖の精製技術が発明されたころ、世界でお砂糖は、金銀と同じぐらい貴重なものだったといいます。それから400年、この頃には既に白砂糖が世界各地に出回っていましたが、その量はまだまだ稀少。砂糖の白色と稀少さには、甘さ以上の神聖さも加わったといわれます。郷土菓子と繋がる修道院などではその白さと甘さのもつ魅力を利用して信者を増やしていったーーー。

ポルトガルの王女キャサリン(カタリーナ)・オブ・ブラガンザ(1638-1705)*は、イングランド王チャールズ2世に嫁ぐとき、ポルトガルが手にしていた北アフリカやインドの植民地の一部と持参金に加え、沢山の砂糖とお茶を持ち込んだといいます。
キャサリン王女がイングランドへ嫁ぐ少し前まで、ポルトガルは一時スペインに併合されていた時期がありました(1580~1640年)。ヨーロッパにおける複雑なパワーバランスの状況下、ポルトガルはイングランドとの良好な関係が必要で、これは友好の証しの輿入れだったという訳です。だからこの持参金は、さぞや気合いが入ったものだったはず。
チャールズ2世は、これらに大変ご満悦だったとか。

この時割譲された植民地が、後に7つの海を征する大英帝国の繁栄の原点になるのかと思うと、この結婚はイングランドにとっても転機だったといえるかもしれません。

王妃となったキャサリンは、持参した紅茶と砂糖で王侯貴族をもてなし羨望を集め、紅茶交流に紅茶外交。ここから、紅茶の国イギリスが始まったのです。
キャサリン・オブ・ブラガンザは、イギリスに喫茶文化もたらした人物としても、歴史に名を残しています。


キャサリン・オブ・ブラガンザの持参金等については、『イギリスの王室』石井美樹子・著 参照。 


2019年5月11日土曜日

筍 (2)





Q1.筍のえぐみ成分はなんでしょう!?

Q2.何故、糠や唐辛子を加えて茹でるのでしょう??



A.
この二つの質問は一つの回答でカバーできます。

えぐみ成分は、①シュウ酸と②ホモケンチジン酸です。
シュウ酸は、竹に成長すると無くなる物質ですが、筍には含まれていて、過剰摂取は結石の原因にもなるので要注意。
結石の予防には、カルシウムと組み合わせて食べることを心掛けるとよいでしょう。
そもそも筍を最初に米糠と鷹の爪を加えて茹でるのも、米糠のカルシウムがエグミと結びついてくれ取り除くことが出来るからです。エグミ抜きした筍を、カルシウムを含むワカメと共に食べる「若竹煮」は、理にかなった食べ方ということにもなります。
ちなみに、米糠と一緒に加える唐辛子は、糠臭さを消すのに役立っているのだとか。

ホモケンチジン酸は、筍に含まれるチロシンが酸化してできる物質で、同じく米糠や重曹などのアルカリで取り除く殊が出来ます。
チロシンは、非必須アミノ酸の一種で、必須アミノ酸の一種であるフェニルアラニンから合成されます。アドレナリンやノルアドレナリン、ドーパミンなどの神経伝達物質の原料でもある他、代謝や自律神経の調整を行う甲状腺ホルモンや、髪の毛や皮膚の黒色色素であるメラニン色素の原料でもあります。
メラニン色素の原料!?と聞くと、シミやそばかすの原因では?と不安になるかも知れませんが、メラニン色素はそもそも肌を紫外線から守る働きをする物質です。
逆に不足すると、白髪の原因にもなります。何より成長を促す甲状腺ホルモンの材料ですので、成長期には大切なのです。
何事も、ほどほどに頂くのが鉄則ということなのでしょうね。)))

尚、チロシンは、少し苦みを感じさせる成分です。実は、バナナやアボガド、リンゴなどにも含まれているんだそうです。

それにしても、人間はいろんなことを思いつくものです。
アク抜きなんて、何をきっかけに気が付いたのでしょう??

人体の防御システムでもある味覚が、NOを突きつけたものを、それでも食べようと工夫した所には、どんな食べなくてはいけない状況があったのでしょう??
生き抜こうとガンバッテ来た人類の様々な食の工夫に思いを馳せると、あ〜有り難や!
グルメ時代は飢餓時代の賜物のようにも思えてきます。





2019年5月10日金曜日

筍 (1)



今年は筍が少ない!

蜜柑や梅など、野菜や果物には、表の(沢山稔る)年と裏の(少ない収穫)年があるということは、体験的に知っていますが、「雨後の竹の子」などと表現されたり、その繁殖力は嫌われるほどの竹ーー筍にも表裏があるのでしょうか??

毎年堀たてを直ぐに茹でた柔らかくてえぐみのない美味しい筍を沢山送ってもらっているので、表も裏も感じること無く過ごしてきましたが・・・
「今年は筍が少ない!」という声を、あちこちで耳にします。

楽観的に構えて今月のNHK教室のメニューに加えていた「筍団子」。
12ヶの筍団子には、ゆで筍が1kg必要なのに、厳しい状況になってしまいました。

あちこち探し回って、当日入荷のフレッシュな筍を6本ゲットすることが出来ました。
ほっ)))。

筍は、時間が経過すると直ぐにえぐみが出てきます。
だから店頭で購入するものには、えぐみのリスクがあるということです。
筍不足の今年、先月下旬に初めて店頭のものを恐る恐る買って、米糠と一緒に炊いてみましたが・・・その分はちょっとえぐかった(涙)))。

この度、時間も無くて、ドキドキしながら茹でましたが、この6本はセーフで、2度目のほっ・・・)))。

そんなこともあったので、授業は筍のえぐみの科学談から始めました。


  Q1.筍のえぐみ成分はなんでしょう!?

  Q2.何故、糠や唐辛子を加えて茹でるのでしょう??


  答えは次回(^_-)-☆


筍団子、木の芽の風味のお出汁だけであっさり食べてもらいたいので、つなぎは片栗粉と卵だけで作ります。
ボナペティ♪







2019年5月5日日曜日

ポルトガルのお菓子(マカオ) 1

食談儀へ入りたいと思います。

ポルトガルといえば、やっぱりお菓子のお話から。日本にも浸透しているカステラや金平糖、ボーロなど、これら皆ポルトガルから伝えられたもの。

植民地からもたらされる砂糖やスパイス、果物などで、お菓子文化花開いていた欧州から、キリスト教と一緒に伝えられたお菓子達。甘いものでまずは胃袋を掴んで、布教活動ということなのでしょう。当時、織田信長がキリスト教の布教を容認したのは、宣教師、ルイス・フロイスが献上した金平糖が美味しかったから・・・なーんてことがあったかどうかは解りませんが、大いに好奇心をそそられたにちがいありません。

ポルトガルのお菓子、まずはカステラから。

カステラの原型は、パン・デ・ロー(PÃO DE LÓ)というカステラよりもふわふわしたケーキです。 では「カステラ」という名前が指すモノはどんなお菓子なのでしょうか?

「ブロア・カステーラ(Broa Castelar)」というお菓子が、マカオにありました。
カステラという名前の方のルーツは、こちらのお菓子ということです。
アーモンド、オレンジ、ココナッツ、蜂蜜、卵、スウィートポテトの餡には、ほのかにシナモンが香ります。
餡の密な濃さと、油脂と小麦粉の皮の感じが、ちょっと月餅のニュアンスにも近い。だから月餅好きの私はこのお菓子を直ぐに気に入りました。紅茶の気分の時も、中国茶が飲みたいときにも、どちらにもフィットする懐の深い美味しさ♡。お菓子の中の西洋と東洋両方のニュアンスを持つ魅力的なお菓子です。
マカオのブロア・カステーラ
カステラの名前の由来については、ポルトガルの歴史に触れた後で追記することにします。

今日はもうひとつ、ブロア・カステーラと印象が重なる琉球菓子をちょこっとご紹介しておきます。



「桔餅 / 橘餅(きっぱん)」

『琉球菓子』安次富 順子著より「きっぱん」

桔餅(きっぱん)は、三百年ほど前に中国の福州から沖縄に伝えられたといわれています。
『琉球菓子』(安次富順子・著)によると、18世紀初頭までは中国からの琉球王国へのお土産として取り扱われていたお菓子だそうですが、やがて琉球でも作ることが出来るようになり、琉球菓子として定着していったといいます。

ブロア・カステーラとちょっと似た印象なのですが、こちらは元大陸のお菓子で、ブロア・カステーラはポルトガルのお菓子。
地球の反対側に、あるいは反対側から伝わった・・・ということは、ちょっと考えにくい気がします。歴史を鑑ると、用の東西を問わず、人間は何千何万キロ離れて同じようなものを同じような時期に考えていたりすることが多々あるもの。誰かが伝えたとか、どちらが先かということではなく、お菓子にもそんなことが起こったのかもしれません??


琉球菓子や鹿児島のお菓子には、中国や韓国から伝わったらしき気配がムンムンするお菓子が多いですが、ボーロやカステラは、時代も少し下りポルトガルから伝わったもの。
この時代の琉球や鹿児島のお菓子もあわせて見ていきたいものです。


さて、久しぶりに、きっぱんを取り寄せ、“ニュアンス” を味わいましょうかね♪


ポルトガルのお菓子 (マカオにて) 序文




大型連休直前、香港&マカオに行ってきました。
今回は、旅行のお仕事絡み故、ほとんど自由がきかず・・・。
なので、代わりにここらで2009年以来折々に旅して拾い集めてきたことをついばんでブログに書いてみようと思います。

マカオ訪問の機会が巡って来る度に、光景や空気に、うねりのような変化を感じてきました。
特に香港サイドの深圳の発展ぶりや、マカオサイドの珠海地区や橋で繋がる島コタイ地区の変貌ぶりには驚かされっぱなしです。世界遺産となっているポルトガル領時代の街並みを辛うじて温存しつつも、カジノタウンとしての様相には益々拍車がかかっている模様。
そして昨年秋には遂に、香港—マカオ間55kmもの海上に港珠澳大橋が開通('18年10月23日)。これぞ「富める中国人の為の、カジノへの架け橋w」。
いやぁ〜〜、スゴイ・・!)))

阿媽(海の安全を守る神様、媽祖)の湾(アマガオ) → マカオ。
この名前の由来が物語るように、今やラスベガスと肩を並べるカジノ街も、欧州が大航海時代を迎える15世紀までは、小さな漁村の集合体のような所だったのです。
15世紀以降、世界の大きなうねりの中、西洋と東洋の中継地として、小さいながらも政治、経済、歴史上、重要な役割を果たしす場所として発展してきたのでした。

バスコ・ダ・ガマのインド航路発見(1498年)を機に、欧州列国がアジアへやって来るようになりました。その中でも留意すべきは、カトリック・イエズス会のアジアへの布教活動です。
この時期、ヨーロッパでは、カトリックの権威が揺らぎ、宗教改革の動きが起こっていました。そんな中でカトリックを盛り返そうと興ったのがイエズス会。航路の発見と共に広がる新しい世界への布教へと乗り出した。。。
日本史でお馴染みのフランシスコ・ザビエル(スペイン・バスク人です)もそのひとり。彼は、マカオへは来ていませんが、マカオの西南にある上川島に足跡を残しています。

島国日本では、突然ポルトガル人(スペイン人なんだけど)が現れたみたいに記録されますが、海の外では、その前から大きなうねりがあり、波風が立っていたのです!!
そんな“波風”の水しぶきを一番に受けたのは、本土ではなく、琉球やら種子島やら、対馬や五島列島やらの離島なのだ)))。

歴史の話はさておき(かなり乱暴な削りすぎの内容でお許し下さい)、その地の食に残された痕跡を拾い上げて、確かな記憶にしておきたい。
食のグローバル化が進む今だからこそ、心に留めておきたいと思うのです。


前置きが長くなりました。
次回は、食談談儀を♪