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監督:ニコラウス・ゲイハルター 幕開けは、豚が縦割りになってぶら下がっている映像。
監督:ニコラウス・ゲイハルター 幕開けは、豚が縦割りになってぶら下がっている映像。
豚、牛、鶏の解体広大な温室のトマトチューブに吸い込まれながらカートに詰め込まれたピヨピヨひよこ。
広大な農地に巨大な農機具で収穫するジャガイモ。
夜でもガンガン明るいビニールハウス。
サイのような筋肉隆々の牛の交配シーン。
その牛の帝王切開による出産。
ホワイトアスパラの収穫。
ブロイラーの鶏と卵牛乳の搾絞向日葵への枯凋剤散布。
レタスの収穫と梱包巨大な機械で木を揺すぶってのオリーブの収穫。
岩塩の採掘。
バキュームで吸い込まれる鮭。
夜でもガンガン明るいビニールハウス。
サイのような筋肉隆々の牛の交配シーン。
その牛の帝王切開による出産。
ホワイトアスパラの収穫。
ブロイラーの鶏と卵牛乳の搾絞向日葵への枯凋剤散布。
レタスの収穫と梱包巨大な機械で木を揺すぶってのオリーブの収穫。
岩塩の採掘。
バキュームで吸い込まれる鮭。
食料生産現場、グローバル・スタンダードの映像を、ナレーションも音 楽もなく淡々と1時間半。
何の解説もなく食料の生産現場を客観的に見せられるだけなのだけれど、映画館を出る時の、この重い気分はナンだ・・・!?
豚の解体シーンはつい最近『人間は何を食べてきたか』(1990 年〜NHKドキュメンタリーで放送・2003スタジオジブリが編ビ デオ&DVDを制作)でも見たし、生きた鶏がたちまち「肉」にされる ところなどはライブでも見たことがある。
動物の解体シーンは、人の手によるものより、機械の流れ作業で行われる方がずっと残酷にみえる。だって、動物たちは、殺される前から既に「食べモノ」でしかないのだ から。
なーんてことを言うのは、身勝手なオセンチリズムの街っ子かな。
そもそも、家畜というのは、最初から人間が食べるために育てている経済動物であるし、そういう意味では生まれた時から「食料」なのだ。ただ、これが 「食料」の生産効率のみを突き詰めた究極の情景であり、これがグローバル化時代の生産現場のスタンダードでもあるということに、改めて驚愕する。
映像に、いくつか不明なところがあったので、パンフレットを買って解説を読んだ。
・50mx13m,200坪のブロイラー鶏舎には1万羽の若鶏たち。
薄暗 いのは発育をコントロールする為だそうだ。
・豚のお尻に何か差し込んでいるのは、人工授精の様子だった。
・子豚の去勢は、雄性ホルモンで肉が臭くなるのを防ぐため。
・牛の帝王切開のシーンは、大型の牛を掛け合わせた「キアニナ」という牛のもの。
キアニナはブルドックみたくすっかり難産になってしまった。
・豚のお尻に何か差し込んでいるのは、人工授精の様子だった。
・子豚の去勢は、雄性ホルモンで肉が臭くなるのを防ぐため。
・牛の帝王切開のシーンは、大型の牛を掛け合わせた「キアニナ」という牛のもの。
キアニナはブルドックみたくすっかり難産になってしまった。
(成長ホルモンを投与したり筋肉粗大を抑えるタンパク質 ミオスタチン阻害の遺伝子操作などもあるらしい。)
・牛の屠殺シーンは「電撃法」(脳天に電気の一撃を与える)なるもので、意識喪失にして心臓が動いている状態(血が凝固しない)で血抜きできるようにされている。
・牛の屠殺シーンは「電撃法」(脳天に電気の一撃を与える)なるもので、意識喪失にして心臓が動いている状態(血が凝固しない)で血抜きできるようにされている。
ドキュメンタリー作家の森達也氏のコメント:「食とはいのちの矛盾を咀嚼することでもある。これは欧米も日本も変 わらない。行きとし生けるものの業であるこの矛盾を、僕たちは整合化 してはならない。矛盾は矛盾として受容せねばならない。端数を四捨五 入してはならない。忘れないこと。意識に置くこと。凝視すること。その為にこの映画はある。
食料を自給していないということは、こういう食料を入手し食していくということ。このような大量生産に依存しているということ。日本人としては、この映像には、もうひとつのメタファーが込められているように感じる。
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