広島県福山市鞆(トモ)の保命酒。
全国レベルで見ると養命酒の方が知名度は高いけれど、ワタシはコチラが贔屓なのだ。
お屠蘇が苦手なヒトでもけっこうイケるといって下さいます。
その保命酒の話を、先般の漢方の講演会で、聞くことができた。メモがてらちょっとうんちくを書いておきます。
★養命酒と保命酒、どちらが古い!?
行き倒れのおじいさんが、助けてくれた信州伊那谷の大庄屋塩沢家へのお礼にと薬酒のレシピを教えたのが養命酒だったという。1602年、「天下御免満万病養命酒」として完成した。
一方、鞆の保命酒は、それより後の1659年に生まれている。
大阪の漢方医中村家の子息中村吉兵衛は、鎖国の時代、港長崎の出島に薬草の買い付けに向かう際、当時瀬戸内の港町として全国から多くの人々や物資が交わっていた鞆の浦に立ち寄っていたが、1653年の大阪大洪水の被害にあい、鞆に移住した。
そこで、当時鞆で作られていた旨酒(味醂)に、中国産の生薬十六種を漬け込んで薬酒、保命酒を造ったのが始まりなのだそうだ。
養命酒は赤穂浪士も養ったであろうと言われているそうだが、保命酒もこれまた名だたる人々に飲まれてきた。
★保命酒を飲んだ人たち
歴史に名を残す多くのがこの保命酒を愛飲したとされている。
・日本外史の頼山陽が愛飲。しばしば鞆を訪れている。
・朝鮮通信使、三条実美。保命酒をうたった詩文が残っているそうだ。
・平賀源内。1752年の長崎遊学の帰りに立ち寄り、鞆の津で陶土を発見し陶器作りを伝授していることから、おそらく飲んだことだろう。
・蘭学者の高野長英。長崎のシーボルト鳴滝塾に学んだ長英は、長崎への道中で立ち寄っているはず。蛮社の獄後、脱獄し、一時広島の三滝に身を隠していたこともあるとか。
・シーボルトも、長崎から日本各地を行脚した際、福山はおそらく立ち寄っているらしい(1826年)。
・ペリー提督。福山藩主阿部正弘は、当時老中職で、日米和親条約締結後の接待に、食前酒として保命酒を出している。
ペリーの記録に「大変立派なリキュールで感心した」とあるそうな。
・坂本龍馬:海援隊のいろは丸が紀州の明光丸と衝突して沈没したのは、瀬戸内海の備中・六島沖(鞆の沖)。坂本竜馬と海援隊は鞆の浦に上陸し、船問屋の升屋清右衛門宅に数日間滞在しているので、おそらく飲んでいるはず。
・江戸幕府歴代将軍も・・・!? 保命酒は、福山藩の庇護を受け、藩主水野家の御用酒として5代、松平氏1代、阿部氏10代に渡る。幕府への献上品でもあったので、おそらく口にしていたのではないでしょうか。
こうくると、保命酒の味わいは16種の生薬の味に尽きない気がしてくるではないか。
★保命酒生薬の内容は・・・
保命酒を造っているところは現在鞆には現在6社が保命酒を造っているが、配合の生薬全てを表示しているところは1社しかない。
その表示によると・・・
地黄、センキュウ、芍薬、当帰、沢瀉(タクシャ)、茯苓(ブクリョウ)、白朮(ビャクジュツ)、肉桂、甘草、杏仁、葛根、丁字、砂仁(サジン)、山茱〓、山薬、檳椰子(ビンロウジ)、の16種となっている。
薬用養命酒には、桂皮、紅花、地黄、芍薬、丁字、人参、防風、ウコン、益母草(ヤクモソウ)、インヨウカク、烏樟(ウショウ)、杜仲、ニクショウヨウ、反鼻(ハンビ)の14種。
いずれも、滋養強壮、胃腸障害、血色不良、冷え症、肉体疲労、疲労衰弱等に効果がある生薬ばかりだが、専門家が保命酒の配合をみると、六君子湯*(&四君子湯*)、十全大補湯*、補中益気湯*、四物湯*、八味丸*など、漢方処方を基本としていることがよく分かるらしい。
この解説だと、なんだかスゴイお酒のような気がしてます・・・が、よく考えたら、お屠蘇同様、たとえ1合の薬酒をのんだとしても、あのティーバック式になっている2,3g程度の屠蘇散の成分に過ぎないのだから、薬としての効果はあまり期待しないほうがいいかもしれません。まあ、酒もお茶も薬のうち。健康酒として、楽しむとしましょう。
*六君子湯:水分の滞り、氣の滞りに有効で、食事を食べようと思えば食べられる程度の症状なら「四君子湯」、食べられないときは六君子湯。
*十全大補湯:気血共に虚した者、疲労衰弱、貧血、神経衰弱などに。
*補中益気湯:心身共に疲労、息切れ、下痢、夏やせなどに。
*四物湯:胃弱ではないが、ヘソの上に動悸がある、皮膚が乾燥する、夫人緒疾患などに。
*八味丸:特に中高年者の強壮、疲労回復、体力増強に。
0 件のコメント:
コメントを投稿