2020年3月24日火曜日

パンデミック エピデミック(4)6世紀日本(つづき)

崇仏か排仏か。
敏達天皇の時代になっても疫病の蔓延は治まらず、世も乱れます。
仏教を取り入れたことによる(神道の)神の祟りだと、物部氏により再び多くの仏像や仏塔が破壊され、蘇我氏は徹底抗戦へ。
587年「丁未の変」。蘇我氏によるクーデター。
蘇我馬子は、物部守屋の一族を殺害。物部勢力を宮廷から一掃することに成功し、一気に政局は変わります。
この後、蘇我氏は、推古天皇(33代)の摂政となる厩皇子(聖徳太子)らと協調して、更に権勢を強めていくことになるのです。

厩皇子らは、当時の朝鮮半島三国---新羅、百済、高句麗の緊張関係も鑑み、遣隋使を送り積極的に隋の政治制度や仏教、儒教を取り入れ中央集権国家体制を築いていきました。
遣隋使に朝鮮半島との往来・・・それはもう頻繁に、往き来があったようなのです。 

そうなると・・・ああ、疫病大丈夫かしら??

仏教の力を借りて、疫病を押さえ込もうとするのですが・・・・こればっかりはそうもいきませんでした。
疫病は、やんごとなき身分の方々---皇室や貴族層にも蔓延し、実は、敏達天皇の後の用明天皇(31代)も、疫病によって亡くなっています。(「病が語る日本史」には敏達天皇も物部守屋もにわかに病んだとの記述もあります。)

用明天皇しかり、疫病を煩った人々は心から「仏教を拠り所としたい」と思ったようです。それはきっと、仏教が、死を不浄(穢れ)として恐れる神道とは異なり、亡くなると成仏(佛と成る)するとして死後の世界について癒しに繋がる世界観を含んでいるからではないかと思います。
そんな祈りが、奈良の大仏建造のエネルギーになっていくのです。

疫病が、大陸との往来が盛んに成るのと同時に蔓延したことは否めません。
だから外国から一方的にもらったような筋書きになってしまうのですが、疫病は、自然環境や紛争による飢餓や不衛生な環境などがあって発生するもの。大陸との往来には、大陸人も日本人も関わり、命がけにもなる大変な船旅を経ること必然なので、疫病が発生やすい環境が常にあったとも言えるのではないでしょうか。
歴史の節目節目には、自然災害や政変・紛争、それに伴う環境の悪化があり飢餓がある。さながら疫病が歴史を作ったかのようにも見えます。

こうしてみると、目下のコロナのパンデミックも、なんらかの政変または自然からのメッセージ or サインなのかもしれません。
ただ、歴史にある疫病と大きく違うのは、私達は神の「祟り」ではなく「病原菌」であることを知っています。
正体がはっきりしているのだから、後は正確な情報を得ること。そのことが、冷静さを保つ為に必要であるとも感じます。
しっかりとした情報がまだない中で、今出来ることは、衛生環境をよくすることと、しっかり栄養と睡眠を取ること、ストレスの回避、密集を避けること。そして「感染爆発」にならないよう、時間稼ぎをすること。物事の優先順位を冷静に判断することetc..

予定していたことが予定通りできる日々は、ありがたい日々だったことを改めて痛感する今日この頃です。

<つづく>

*天皇の名前や代、在位期間については、宮内庁ウェブサイトにある、歴代天皇の系図をご参照になると分かりやすいです。
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/keizu.html
https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf

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