2020年3月20日金曜日

パンデミック エピデミック(3)6世紀日本

日本で、歴史の勉強といえば、丸暗記。
そんな感じだった。
そして、世界史については、選択教科で殆ど学ぶ機会が無かったり。。。

しかし、日本史上にある諸々の事象の多くは、実は世界の動きと連動して起こっていた。
一見島国で純粋培養の印象すらある日本島も、日本海の荒波も台風も乗り越えて、古代から大陸と往き来し、少なからず影響を受け続けていた。

そりゃあ、容赦なく異民族の侵入乱入の恐怖に晒されてきた大陸の国々に比べれば、往き来もある程度「選択的」であり得た(そういう「時期もあった」と言うべきか?)
でも、お国がどんなに選択的であったとしても隙間で人々は往来してきた。

これまで、他国に比べれば、日本はかなり大らかに異国文化を享受してきたというイメージを持っていたけれど、本当にそうだったのかな??

古代〜中世 稲作、漢字、仏教・・・ひょっとしたら国家という概念も!?

中世〜近世 鉄砲、キリスト教、通貨・・・そして世界という概念も!??


「その時、世界は?」と、照合してみた時、そんな単純なものではないことに気付かされる。
今も昔も、似たようなことが繰り返されていたということにも。

そして、歴史の節目節目には、しばしば「疫病」の流行が。



episode 1  
AD6世紀:欽明・敏達朝の疫病

6世紀半ば、朝鮮半島の百済から経文が届きます。時の天皇、欽明天皇(29代)は、仏教をどう扱うべきか、重臣 蘇我稲目と物部尾輿に意見を求めます。

新興で渡来人勢力とも連携していた蘇我氏は崇仏派。国際感覚を持って自身の勢力UPも図りたいと考えています。一方、物部氏は大和の王・神武天皇時代からお仕えし代々神事にも携わってきた由緒ある家系ですから、神道派で排仏派。異国の宗教、仏教容認には猛反対です。
グローバリスト v.s. ナショナリストという典型的な対立がこの時代にもあったというわけです。

※注釈:天竺(インド)で生まれた仏教は、中国〜朝鮮半島を経由して、日本へも伝わってきました。
6世紀前半にはジワジワ私的な信仰として伝来していたようですが、公伝(国家間の公的な交渉として伝えられたとする)は、538年(552年説もあり)とされます。
当時の朝鮮半島三国には4世紀半ばに伝わったとされ、高句麗ー百済ー新羅の順に公伝だったよう。大和朝廷と盟友関係にあった百済には若干遅めの4世紀後半(本格的に普及したのは6世紀初頭)、新羅には5世紀初めに伝わったといわれています。
当時中国(梁の武帝)に柵封されていた朝鮮半島では、仏教は、仏教に心酔していた梁の武帝の歓心を買う為の外交ツールでもあったので、日本に伝えてきたという訳です。

当時の日本では、既に渡来人(帰化人)も多かったので、仏教はジワジワ浸透し、お寺や仏舎利塔が作られていました。
欽明天皇は公式に仏教を受け入れるも、物部氏ら反対派へ配慮し、全面的な依り所とするのではなく私的な礼拝や寺の建立に留めました。

が! 仏教が広まると時を同じくして疫病の流行が始まりました。
物部氏は、日本古来の神々がお怒りだ!疫病は、仏教のせいだ!と、仏像や寺を焼き払うなどし、蘇我氏への牽制を強めます。

蘇我氏は神道をないがしろにしたわけでも無いし、物部氏一族の中にも仏教を受け入れている者もいたという話も。あくまで国家祭祀としての宗教をどちらにするかという意見の相違であったとする説もあるそう。また、仏教推進だけで無く、天皇擁立についての意見の相違も対立の原因であったという。

この辺りは政治的判断もふくまれることですから、勿論こんな単純な話ではなかったでしょうけれど、仏教伝来にも繋がる人々の往来で、疫病が持ち込まれてしまったようです。
(「疫病の世界史・下」付録・中国における疫病を見ると、この時期特に、中国での疫病大流行の記録は無いようです。)感染の経緯は不明ですが、歴史を揺るがす(神話以外に記録されているものの)疫病第1号として、ここに挙げておきます。

時代は欽明天皇から敏達天皇(30代)〜用明天皇(31代)の時代へ。
蘇我・物部両家の間の確執も次世代に持ち越しとなります。

<つづく>

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