2008年7月6日日曜日

コンヤへ




7月5日。
イスタンブールから、空路にてアナトリア地方へ向かう。
晴天の午前にみる車窓・・・いや機窓(?)からの景色は、壮観!

延々と広がる耕作地と大自然を眺めていると、自給率100%以上の国の底力がひしひしと伝わってきます。

写真は、コンヤの郊外、チャタルホユック*に向かう道中での車窓。

一面に広がるのは、灌漑農法でのパンジャル(砂糖大根=てんさい)の畑。(*コンヤには、世界5本指にはいる大きな精糖工場がある。)
コンヤは、小麦、大麦、てんさい、その他果物等々を豊富に生産している農業地帯だという。
一部塩分を含んだ土壌もあるものの、現在その土壌を「塩抜き」して農地に改良するというKOP(コンヤ・オバス(高原)スラマ(灌漑)・プロジェクト)が、国をあげてすすめられているのだそうだ。

水源は、ベイシェヒール湖。乾いた土地のようでも、水だって豊富にある。

「食ありき」。
トルコの首相も、オスマンのスルタンに負けていないかな。

食を大切にしている様は、トルコの庶民生活に欠かせないチャイが、地産地消(ほとんど国産であり、ほとんどを国内で消費しているらしい)であることからも、一端がうかがえよう。

*チャタル・ホユック
コンヤの中心地から南東に40kmぐらいのところ。世界最古(BC7000~9000年)の新石器時代の集落後が1958年に見つかっている。時代を異にした十数層ものヒッタイト居住跡があり、発掘調査は現在も続けられている。ホユックとは、「遺跡・塚」の意。

トルコ:トプカプ宮殿(2)July 4~5th より



大きな鉄鍋。土鍋もある。

土鍋は、モロッコのタジンにも似てますね・・。

展示品、及び閲覧可能な範囲は、当時のほんの一部らしいのですが「炊き出し」サイズのこのお鍋達を使って千人あまりの料理人が働いていたそうです。

壁に掛かっている当時の食事模様を描いた絵には、大皿料理が続々と運ばれ並んでいる様子が・・・。

料理を振る舞うことは、その人の徳が上がるということ。
そういう考え方が、イスラムの教えにはあるのだそうです。

イスラム文化圏に限らず、食べ物を豊富に供給できる財力、民を養う力があうことが、世界のどこの歴史を鑑みてもずーっと指導者たる人物の絶対条件であったはずなのだけれど、昨今は、いかがなものでしょう???
戦争をして、民を飢えさせているようでは、風上にもおけませんな。


トルコ料理が何故世界三大料理のひとつと言われるのか。

その疑問をあちこちのトルコ人に投げかけてみました。

この後訪れたコンヤ県で博物館の総館長であり考古学者でもあるヌレッテン氏のコメントは、こうだ。

トルコという国は、最盛期には世界の1/3がその領土にあった。そんな中で、料理人もいろんな地方や民族からの貢ぎ物として連れてこられ、多民族の食文化を取り入れてきたと同時に、広めてきた。強大な国になっていく過程において、食は欠かせないものだったのだ。

私:フランス革命のときのように、オスマン朝の崩壊で、宮廷料理人が分散し、庶民にも宮廷料理がひろまった・・・なんてことはないのでしょうか?

ヌレッテン氏:オスマン朝の厨房では、料理人は徹底した分業であったこと、また、スルタンは、要の料理人も連れて亡命したこと、さらに、オスマン朝時代の料理記録はオスマン語=アラビア語で書かれていた為、料理長クラスの人間以外は読める職人もいなかったことなどを上げ、ゆるやかに否定された。

多民族に受け入れられた食を構築したことも、かつて強国となった所以かもしれません。

氏のお話を伺っているうちに、料理人と食事を大切にしたオスマン朝が浮かび上がってきたゾ。

オスマン軍の軍隊には、鍋を持った炊き出し隊がいたことなどを聞き、このお鍋を見入っては、トルコの胃袋パワーを想像するのでありました。

2008年7月5日土曜日

トルコ:トプカプ宮殿



トプカプ宮殿。
あまりに有名なこの光景。

一番の人気はハーレムだそうですが、私の期待は、宮殿内にある厨房。

日本の武家屋敷・・・柳宗悦邸(日本民芸館含む)等々、国内外を問わず、歴史建築が博物館になっているとき、厨房や風呂場、トイレは、殆どが事務所になっていたり立ち入り禁止になっていることに、多いに不満をもっている私としては、ここの厨房を見るのを楽しみにしています。

さてさて・・・???

2008年7月4日金曜日

トルコ入り




最初の1枚はコレ。

トルコに入るや否や「今日は祝日かい?」と、思うほど、そこかしこに掲げられている国旗が目に付いた。トルコ国民の誇りの象徴。

*親日トルコ

20世紀初頭のこと
「日本人とトルコ人は、そもそもの昔、中央アジアで祖先を同じくして育った民族だ。その後、日本人の祖先は東に出向いて日本という国をつくり、我々トルコ人の祖先は西に出向いてトルコという国を造った。その折、日本人の祖先とトルコ人の祖先は、互いに、太陽と月と星を分け合って別れた。日本人は太陽を、トルコ人は月と星をもっていった。そしてそれは今、両国の国旗となっている。」

トルコでは、日本並びに日本人への親しみを込めて、こんな話が本当のことのように言い伝えられているといいます。   

2008年6月26日木曜日

トルコへ

トルコ旅行計画中

シルクロードの終着点であり東西文化の交差点トルコ。
イスタンブールをメインに、カッパドキア、コンヤを含める10日間。(7月3日より~)
トルコ。知ってるようで知らない国。西欧中心の日本の世界史の教科書にはオスマントルコになる19世紀迄は、ほとんどお出ましにならないが、十字軍が何度も進軍したコンスタンティノープルが、今のイスタンブール。ローマ帝国の半分近くが今のトルコで、もっと遡れば、ヘレニズム文明、トロイ文明・・・コレみーんな、現トルコの地。

中国史では、大国の隋、唐を脅かす騎馬遊牧民族「突厥」(=トルコ)として、侵略者のごとくチラッと登場する。

イスラム教が9割を占める国だから、アラブ人国家と混合されがちだけれど、民族的には違うのである。

(・・ということを、私はつい最近まで知らなかった。)

その料理は世界三大料理の一つとして上げられるレベルのものであるという。
オスマン帝国が破綻して、宮廷料理人が宮廷料理を庶民の中に・・・なんて、フランス革命後のフランス料理の発展みたいなことがここでもあったらしいから、面白い。

なんだか複雑そうな国だけど、食を切り口に覗いてみたら、きっと紐解けるはず。

ハレの日の食と養生食、市場の風景、原産地の野菜・・・そして、スパイスいろいろ。こんな足下の部分をしっかり見てきたい。

2008年6月17日火曜日

マリアージュフレールのティージャム ”タリースーション”

マリアージュフレールの ”タリースーション"

紅茶にハマったのが15年前。出張先のロンドンで、最終日にバタバタっと買った紅茶が、たまたま全部アールグレイ。バラエティ豊かに揃えたはずだったのに、缶の柄に気を取られた結果でした。

せっかくだから、アールグレイの、飲み比べを楽しみました。
メーカーによってこんなに香りが違うのか~)))。

今思えば、それが奥深い紅茶の世界への、はじめの一歩でした。

アールグレイは、一般には、キーマンやセイロンなどの茶葉にベルガモット(柑橘系)の香りを付けたものが多いそうですが、その中にひとつ煙たい香りのアールグレイがありました。

フォートナム&メイソンのアールグレイブレンド。
ラプサン・スーション(正山小種)という松の木の煙香がついた中国紅茶、をブレンドしてあるのでした。
ラプサン・スーションは、ヨーロッパで飲まれた最初の紅茶だったとか。

ある日、渋谷の喫茶店でアールグレイを頼んだら、このスモーキーアールグレイが出てきて、それが意外に美味しく頂けて、入れ方の違いでこんなにも変わるものかと教えられました。

話がすっかり脱線しましたが、このスモーキーな紅茶が使われたティージャムが、マリアージュフレールのタリー・スーションなのです。
スコーンには欠かせない1品です。




2008年5月15日木曜日

『ペリー&ハリス~泰平の眠りを覚ました男たち~』展 

於・江戸東京博物館

日米修好通商条約が結ばれたのは、今から150年前。NHK大河ドラマ『篤姫』ともオーバーラップするこの時代。

日本史がこの辺りからグラついた人も少なくないでしょうが、何を隠そう、私もそのひとり。

幕末~明治維新までを連載しているみなもと太郎の『風雲児たち』も、ちょうど今この辺り。このマンガは、関ヶ原に触れ、『解体新書』をはじめ、多くの蘭学者やエカチェリーナと謁見した漂流民光太夫一行、北方領土のこと、日本地図の作成等々、日本が海によって世界と繋がっていることをいち早く再認識した人物らにフォーカスしながら、とてもわかりやすく幕末を描いているので、マンガでセッセとキャッチアップを試みています。(みなもと太郎先生、はやく続きを描いてくださーい!)


展示品は、契約書や日記、絵画といったものが主で、激動の時代の展示にしては全体的に地味な印象でしたが、もうこの時代には、写真もあり、人物像も記録がしっかり残っているので、より具体的にイメージが伝わってきます。

ペリーやハリス。
母国では日常食だった肉や牛乳の調達に大変苦労したようです。
当時の日本では、鶏肉も卵を産まなくなった老鶏のみ食用とされていたので、硬いチキンに大層ご不満だったご様子。自らの養鶏場も試みたが上手くいかなかったとか。
ハリスが体調を崩したとき、牛乳を所望したというエピソードも・・・。このとき、やっと手に入れた牛乳は、今の金額で一升1万円ぐらいだったとか。

お酒も、持参したワインやブランデーなどは、その殆どが進物用で、自らは結構頻繁に保命酒を飲んでいたとか。
※方命酒:福山藩主阿部正弘は、当時老中職で、日米和親条約締結後の接待に、食前酒として保命酒を出している。ペリーの記録にも「大変立派なリキュールで感心した」とあるそうな。保命酒は、ハリスが下田に上陸した時の応接と饗応の献立(以下)にも入っていました。

茗荷    むすび

吸い物   いなだ

保命酒   茶菓子

海老牛蒡  卵とじ

家鴨    冬瓜ねぎ

おにぎり・・・やっぱり日本の国民食なんですねえ)))。



また、贈答に幕府からもらったお菓子の2段重ねには、彩りよくレイヤーにしてリボン状にした細工の細やかな飴や、唐饅頭、難波木目羮等々がきれいに配列され桐の箱に入っている。これをもらって美しさに大変感激したときのことは『ハリス日本滞在記』(坂田精一・訳/岩波文庫)にもあるそうです。

ペリーやハリスが、日本滞在中に、どんな風に日本人を観察し、何を食べ、どう過ごしていたのか・・・なんてことは、教科書には出てこないけど、展示を見ている内に、当時の様子が人物像と共に、徐々に浮かび上がってきました。