2006年11月27日月曜日

『プラダを着た悪魔』


『プラダを着た悪魔』、これは、まさしくビタミンムービー!

ジャーナリストを目指してニューヨークにやってきたアンディ(アン・ハサウェイ)が、ファッション誌ランウェイのやり手編集長ミランダ(メリル・ストリープ)のアシスタントとして奮闘する日々を描くドラマ。

悪魔・・・とは、メリルストリープ扮するミランダのこと。

24時間、ミランダの公私堺ない強引な指示に振り回され、いつの間にかキャリアの為に恋も友情も犠牲にする生き方に引きずり込まれていくアンディ。憤慨しながらも、仕事の厳しさやカリスマ編集長の孤独を知り、成長していくアンディには、誰しも共感できるはず。

登場人物が着こなすプラダ、シャネル、ドルチェ&ガッバーナ、ジョン・ガリアーノ、エルメス等々のファッションも見モノだ。

それにしても、この映画でのアンカー的存在は、メリル・ストリープ。目や唇の動きだけで、周囲のムードを一変させるドラゴン・レディの迫力は、役柄を越えた大物女優の存在感そのもの。ミランダが単なる悪役に治まらない魅力を放っているのは、彼女だからこそ描けた役柄だと思う。

グッと着た台詞がある。

ファッションにはあまり頓着のないアンディ。ファッション業界に身を置きながらもこれまで通りのロー・モードな服装で仕事を続ける彼女に、ある日、ミランダが容赦なく厳しい言葉を投げかける。くじけたアンディが、スタイリストのナイジェルのオフィスを訪ねて自分の努力を分かってもらえない悔しさを訴えたときの、ナイジェルの一言。

Get up at 6:00, she(ミランダ) is just doing her job.

ファッション誌ランウェイというアートを生み出す作業の為にみんな働いているのである。誰かに褒められるため、認められる為ではなく、素晴らしいものを造る為に頑張っているのだ。ミランダは、ドラゴン・レディと言われようがスノー・クイーンと言われようが、自分にしか出来ないという自負のもと、より完璧を求めて仕事をしている。プロの仕事には、努力賞などない。

確かに、アシスタントや秘書という仕事は、「自分の為の仕事」と考えにくい業務であるかもしれない。言われたことをこなすことに右往左往させられることも多々ある。自分のフィルターの使い所を心得ていないと、虚しさばかりが募る。

ナイジェルの言葉で、アンディは、仕事へのアプローチを一新、ナイジェルの陰のサポートを貰いながら、ミランダもハッとするようなファッションに身を包み、仕事への覚悟と意欲をアピール。周囲も、次第にアンディを認めるようになる。

昼夜ない多忙な日々の中での、同僚たちとのやり取りが何とも小気味よい。

テンポのよい場面展開に、マドンナの『ヴォーグ』がしっくりハマっている。

ラストの、ミランダの笑顔が印象的。))))




デヴィット・フランケル 監督。

ローレン・ワイズバーグ 原作。

ローレン・ワイズバーグは、ファッション誌『ヴォーグ』の編集部で、当時のカリスマ編集長アナ・ウィンターのアシスタントとして勤務していた経験があることから、ミランダのモデルはアナ・ウインターではないかとささやかれているそうだ。作者本人はこれを否定。アナ・ウインターも「自分とは似ていない」とコメント。メリル・ストリープはというと、(ウインターではなく)幾人かのビジネスマンを参考に、役作りに取り組んだとフォロー(?)しているそうだ。

2006年11月18日土曜日

築地(2)一杯のみそ汁


市場を一回りし、手にはマグロのカマ、野菜(野菜だって一束一パックから買える)、本。魚河岸横丁の一角にある書籍部は、狭い店舗ながらも飲食業関係者を対象とした料理本や雑誌に特化されており、料理関係なら欲しいものを見つけやすい。以前ブログに書いたお魚カルタも、こちらで買える。

一通りの買い物を済ませたら、お腹もペコペコにーーー。

10時頃になると、飲食店に人が集まり始める。私もここで、遅い朝ご飯をいただくことにした。

鮮度、素材が売りの軒の中でもお寿司屋は、一番の人気。真っ先に行列ができる。

列に並ぶ余裕もない胃袋を抱えた私は、あんこう屋「高はし」の暖簾をくぐった。

高はしは、魚料理の定食がおいしい。刺身、焼き魚、穴子丼、煮付け、あんこう煮等々、その日のお魚で造る料理に、ごはん、お新香、みそ汁を合わせた定食も頂ける。毎日通っても飽きの来ない料理で魚河岸で働く人々の胃袋と心を満たしている。

カウンター席12-13席。肩幅ほどののスペースで、まるで屋台のよう・・・。左隣には、一仕事終えた風の長靴姿のおじさん。注文も「いつものヤツ」の一言で、ごはんの量までおじいさん向きの定食が運ばれてきた。どんぶり飯に生卵をかけて掻き込んでいる。70近いかと思われる風貌だが、力仕事に従事する現役男性の豪快な食べっぷりだ。

右隣は・・・3人の若い男性。金目鯛の煮付けとお刺身の定食と、穴子丼、太刀魚の塩焼きを、慣れない様子で注文し、運ばれてきた料理の皿を珍しそうに3人で回しながら食べていた。

私は・・・まだちょっと時期が早いけれど、あんこう煮定食を・・・・。

間もなくどんぶりの汁物とどんぶりの御飯、みそ汁、お新香が運ばれてきた。

汁物が重なるので、右隣で単品の穴子丼を食べている男性にみそ汁を食べてもらうことにした。

「良かったら、これ(味噌汁)どうぞ」

「あ・・、ありがとうございます!」

「学生さんですか?」

「あ・・、そんな風に見えます?嬉しいな。会社が近くでして・・・夜勤明けなんですよ。」

朝日の整理記者さんかな?

3人全員がお味噌汁付き朝ご飯になり、朝の胃袋も安心感がましたところで、

「あの・・よかったら、これ一口どうぞ」と、金目鯛の煮付けを私に回してきてくれた。

「あ、これもどうぞ」

今度は、穴子丼が回ってくる。

遅れて運ばれてきたぶっとい太刀魚の塩焼きは、ちょいとお醤油をかけてそのまま私の前に・・・。

「じゃあこれも・・・」と、私も追加で頼んだお新香を回す。

ローテーションに加えて貰い、しこたま出身地やお国自慢混じりの美味しい話に花を咲かせ、4人で舌鼓を打った。

食べ物を共有すると、何故か会話も弾んでくる。

行きずりの人情に気をよくしている内に、気が付いたら「ちょっと多いかな・・」と思っていたどんぶり飯を平らげてしまっていた。

食事は、やはり大勢で頂くのが食欲も美味しさも増すというものだ。)))

一杯のかけそばならぬ、一杯のみそ汁。すっかり温まった心と体。いい一日のはじまりを予感した。

2006年11月17日金曜日

築地

築地。やはり面白いのは、場外より場内。

一昔前は、素人禁制のムード漂う場所だったらしいけれど、築地ツアーでマグロの競りを一般人にも公開したりで、随分と近づき易くなりました〜。

一昨年前に参加した築地ツアー。(朝の4時半集合!)コレなかなか圧巻(!)。19世紀の息づかいそのままの風情にすっかり魅了され、以来上京の折には再々足を運ぶようになりました。

午前9時頃までは、業者の大八車やターレットの激しい往来で挽かれないように通路を歩くだけでも大変だけれど、時間帯を選び、仁義を守りさえすれば、私のような素人でもそれなりの買い物ができるし、その道一筋の職人気質な店主に話を聞かせてもらえることもあります。

値切らない。
商品にさわらない。
許可無く写真を撮らない。

ツアーの時教えられたこの3つは守るようにこころがけています。

使っている刃物や道具のこと、魚のこと、市場のこと等々・・・一言二言交わすうちに「おねえさん、これ○○○円にしとっくから、買ってきなよ」なんて展開も・・・!)))

魚介の場合は、箱単位や大きなブロックだったりすることもあるけれど、10時を回ると、お片づけモードも入って、破格で譲ってくれたりする。カニ、エビ、カキ、ホタテ・・・・「1箱2000円にしとくよ」と言われた時は、都内在住でないことをとても悔しく思うのであります。

・・という訳で、いつも買って帰るのは、マグロのカマ。ー50℃で冷凍され金属さながらにカチンコチンのマグロをそのまま裁断したものは、常温で5-6時間たってもまだ完全には解凍しないので、夜の飛行機で持ち帰ることができる。写真は1000円で頂いた代物(の1/2) 。軽く1kgはある。筋のない方は、ほじり取って、ネギトロのように刺身で十分頂ける。残りを塩焼きにすると、霜降り肉のステーキも顔負けのご馳走になる。なんせ2メートル近くもあるマグロのカマだから、ヘタな哺乳動物よりも「肉」。

今回は、筋肉の木目の細かい部分をブロックに取って、ガスの直火で炙り、氷水にとってからスライスし、タタキ風で食しました。

滴る脂・・・。

不思議なことに、ちっとも胃にもたれない。

室温でも溶け出さない動物の脂と違って、体温の低い魚の脂は、人間の体内では溶けやすく中性脂肪になりにくいのだそう。
【写真:マグロのカマ(1/2にカット済)】
場外のつま屋さんで防風や生ワサビを買うと、2000ー3000円で鮪専門店さながらの一品ができてしまう。

2006年11月15日水曜日

お江戸の味:玉ひで 玉子V.S.卵


何年ぶりかで、東京・人形町の玉ひでで、親子丼を食べました。

1760年創業、日本で最初に親子丼を作ったお店。最近では、地方の物産展にも出店したりしているので、なにも東京まで来なくても食べられるみたいだけれど、どこで食べても1時間待ちは必須。厳選卵と厳選の軍鶏、秘伝のタレ、老舗のストーリーに、一杯1300円の幸せを求めるなら、1時間も、大した時間じゃないのかもしれない。

玉ひでの親子丼を初めて食べたのは、かれこれ10年近くも前。
初めて食べたものは、何かにつけて基準になりがちですが、おかげで、私の親子丼のハードルは、かなり高くなってしまった。

あの、卵の何とも言えない半熟さ加減、ごはんが浸らないタレ加減。シンプルな料理ほど難しいことを実感させられる一品。

ところで、卵と玉子。

これって、どう違うんでしょう? 

親子丼を食べた後、立ち寄った古本屋で、偶然その答えがみつかりました。

かに玉、おでんの玉子、生卵、とき卵、金の卵、カエルの卵・・・私は何となく、卵は生で、料理すると玉子になるのかなーと思っていたのだが、ちょっと違うらしい。明確な基準はないものの、卵は生物学的な意味でのタマゴを指し、玉子は、食材としてのタマゴを表すという説が有力なのだとか。また、タマゴの殻に入った形状を留めていないときには卵なのだそうです。

すると、ゆでタマゴは、ゆで卵ではなくゆで玉子なのね。

役者の卵も、役者の玉子と言った方が殻を破っていない→一まだ皮剥けていない感じでいいのかしら??

親子丼のタマゴは、卵なのか玉子でなのか・・・・。(「玉ひで」だから玉子といいたいところですが、これについては創立者の妻が「たま」さんだったり当初の屋号が「玉鐵」だったりで不明xxxあしからず。) 





2006年10月29日日曜日

食育の講演会(3)


4)最後に、小泉前首相の刺客として衆議院議員に当選し、食育の活動をなさっている藤野真紀子先生。

「ティーパーティーをして食育を語りましょう」、「政治と料理は同じと考えております」といった大胆(?)発言が報道で流れ、一体どんな方だろうと、興味津々だった。栗原はるみさんと並んでカリスマ主婦と呼ばれ、お菓子やお料理の世界では、ハイセンスでエレガントとなイメージで大活躍。ニューヨーク、パリの駐在経験もあり「フランスの旅委員会」2001年の親善大使を努め、フランス政府からも文化普及に貢献したと評されるほどの海外通でおられ、華やかさが際立つ方。

1時間の講演でしたが、食育基本法の制定の意義やその内容について、その成立のいきさつなどからわかりやすくお話になった。

「食育」が法律で制定されたのは、世界でも日本が初めてなのだとか。決して海外通的なお話ではなく、庶民の目線で語り、お上からのお役目をきっちり務めておられた。時間がおしてきて早口になってもくずれないきれいな日本語))))。(フランス語もとてもきれいだとか・・)コンプレックスが無い人特有のアグレッシブさはあるけれど、チャンスに怯むことなく立ち向かい着実に自分の力にできる逞しく頼もしい方だという印象を持ちました。(・・・と同時に、一部分だけを切り取って報道するマスメディアの怖さも・・・改めて実感。)

「食育は、もちろんそれだけを取り上げるべき問題ではない。けれど、今や国としても、放っておけない程の社会問題になってしまった。法律の落とし込むことになったのです」と、藤野真紀子先生。

現在、食料の自給率は、オーストラリア 200%、アメリカ 120%、フランス 130%、ドイツ 97%、イギリス 69%、そして日本40%。

地球温暖化→砂漠化→作物減少。地球は、確実に食料不足へと向かっている。

そして、「飽食の時代」は、新たな飢えをも生んでいる。

朝ご飯をひとりぼっちで食べている子供、30%。朝食を食べない子供も増加している。

朝食をきちんと取ることによって、学習能力がアップすることは、すでに認められている。特に、理数系の能力アップに繋がっていることは、各学校の取り組みによるデータに出ているそうだ。そして、味覚は、国語能力のアップに繋がるのだそうだ。味覚の表現に言葉を使うので、味、音、匂い、歯触り・・・感覚と言語とを関連づけることで、表現能力が鍛えられるという訳だ。(ちなみに、味覚の教育は7才~11才までに行うのが効果的とか。11才以上になると、食べることに、余計な理由がでてくるので。)

合理性追求と消費生活の中で、いつの間にか歪み始めた私達の食生活。情報収集して健康を考えて暮らしているはずでも「情報」の意味を取り違えると、あさっての方向へ向かってしまう。

やはり、経験を通した情報を家族間で伝えていくことが大切・・ということか。言うは易し。根は深し。

日々、卵1パックXX円だの何だのと、目先の数字には敏感でも、税金の行方には疎い。これではいかんのですね。))ひとりひとりが賢い消費者になることからはじめなくては。そして人間らしい社会生活を送る。

総時間、約5時間の講演が導く先は、やはりココでした。

(了)

2006年10月26日木曜日

食育の講演会(2)


2)梅垣先生は、サプリメントや健康食品、あるいは体によいとうたわれる食品の安全性有効性、何をどう信用し判断していくかの手がかりを、わかりやすく解説。身近に見聞きしているいわゆる「情報」は、効果を過大評価し、安全性を過小評価されている。効果ばかりに注目しているものであることを認識し、情報提供者側の目的を理解して判断しましょうと語る。  (http://hfnet.nih.go.jp/

学会等も、「○○に効果がないということが判った」というものは、論文にはなりにくい。だから「効果がある」という結論を前提に試みられていると考える方がよい。情報というのは、常に「リスク < ベネフィット 」。ポジティブな側面だけが語られることを認識すべし。

3)の神田先生の弁も、安原先生に勝るとも劣らず。偏った情報、信憑性の低い情報に振り回されている世間の人々に警鐘をならす。

ハーブ製品、漢方というと安全なイメージがあることへの誤解、外国製品の安全基準は異なるということ、ダイエット食品の危険性について「健康食品には法律上の定義は無く、健康食品と一口に言っても、3種類あります。健康(になる)食品、健康(を願う)食品、健康(を損なう)食品・・、これら全て”健康食品”というんですよ」と説く。健康食品等に頼ったダイエットの危険性を「体は細身、脳も細身、あげくに認知症」「一笑にふすか、一生に臥すか」と、危機感迫る言葉で食事の大切さを解説。

朝食のことを、英語でBreakfastと言うが、"fast"とは、断食のことを言う。

すなわち、断食をbreakするーーー「断食を止めること」とという意味になる。これを「朝食が無くなると、親子共々"Break"  なのだ」と、食育についても、生活習慣としての在り方を言及。

真の知性とは、どんな人にもわかるようなかみ砕いた表現ができることだなあ))))。<しみじみ・・・>

「食育」という言葉に、どこか釈然としなかった自分の思いが何なのかが、少しずつ見えてくる気がしした。

2006年10月23日月曜日

食育の講演会より:藤野真紀子/神田博史/安原義/梅垣敬三(1)


先週から数回、4先生方による「食育」をテーマにした講演会に足を運んだ。

1)「俺にも言わせろ ~社会と文化が正常なら食育はいらない~」by 安原 義先生(東京農業大学短期大学部 栄養学科教授)

2)「健康食品の安全性と有効性」 by 梅垣敬三先生(国立健康栄養研究所情報センター・健康食品情報プロジェクトリーダー)

3)「ダイエット食品を考える」 by 神田博史先生(広島大学薬学部助教授)

4)「食育を通じた人づくり」 by 藤野真紀子先生(料理研究家・衆議院議員)

ー日時順ー

タイトルから、講演内容はなんとなく察しが付くでしょうか。

1)の安原先生のお話は、社会の矛盾を食と栄養学の視点からもの申したもの。

人間は、情報をDNAだけではなく文化で伝えているのである。その文化は、家族揃った食事の中で培われ、文化の継承の中で、健康の維持能力も育っていく。知育、徳育、体育、食育がバランスよくできてこそという主旨のお話。

食物そのものに着眼するのではなく、あくまでバランスと自然を考えるべしと、マスメディアによる美意識や健康観の歪みを指摘し、「ブスは痩せても痩せたブス」「ジャンクフードはない。食べ方がジャンク」「栄養士らが健康によいと薦めた食品はアレルゲンだった(アレルゲンにならない食品はない)」「健康で長生きすれば、癌かアルツハイマーで死ぬ」・・・等々、綾小路きみまろさながらの毒舌で、子供や孫たちの食生活に釈然としない思いを抱えるおかあさんおばあちゃんを「うん、うん」頷かせる。

栄養学科の先生らしからぬ発言だが、意外に昨今こういう考えの栄養士さんは多いように思う。

癌で闘病生活を送った経験のあるベテラン栄養士さんと、以前一緒に食事をした時にも、自らの体を通して「栄養学の分子の世界で健康を語るのは人間のおごりだ」とおっしゃっていた。科学的知識があるからこそ、その矛盾にも気が付くことができるものなのかもしれない。

安原先生も「試験管の反応が体内で同じようになるとは限らない」と、異口同音に説かれる。

科学は、ある約束事の範囲で成り立っていることを認識しなければならない。

科学とは、複雑な事象を単純化して説明する遊び。複雑な物質は、それを構成する要素に分解し、それらの個別の要素だけを理解すれば素の複雑な物質全体の性質やふるまいも全て出来るはずだと想定する考え方なのだーーーと。

有るものを分け合って食べる時代から、選んで食べる時代への移行で、大切なものが抜け落ちてしまった!?。

自然の力、すなわち栄養素では語れない旬のエネルギーとバランス力。

ちょっと体調を崩した経験のある人なら、きっと思い当たることがあるはず。そして、自分の体の声を聞くことを覚えたら、聞こえてくるはずである。

私自身も、ストレスで体重が減ったことがあるのだが、その時は、体が冷え易い状態で、ちょっとした食べ物の違いで、体がぽかぽかしたり、シンシン冷えてトイレが近くなったりという違いを敏感に感じた。それを機に、陰陽説や医食同源などというコンセプトにも関心を持つようになったが、知れば知るほど、改めて自然の摂理に感服するばかりである。

進歩の中で、実は退化させてしまった感覚があるのではないかーーーー。

お話を聞くごとに、そんなことを考えさせられる。

<つづく/全3回>